第24話「土の音」
帝都で、一枚の刷り物が拳ほどの値で売られていた。
禁制品である。南方の反乱都市が刷った宣伝文書——《徴発票ニ曰ク、対価、帝国ノ保護》。持っているだけで憲兵の世話になる紙が、しかし、貴族の夜会で回し読みされ、取引所の裏で写本が作られ、ついには宮廷の廊下にまで忍び込んでいた。禁じられた紙というものは、禁じられた分だけ高く飛ぶのである。
効き目は、値段より高くついた。夜会で貴婦人が「スロテンとはどこですの」と地図を持って来させる。取引所で南方軍票の引受値が下がる。説教壇で聖焔教会の司祭が「南方の噂は叛徒の毒」と説く——説けば説くほど、聞いた者は帰り道に写本を探した。帝国の民は建国以来初めて、南方の小さな村の名前を、帝国の官報ではなく敵の刷り物で覚えたのである。
総帥府の執務室で、ゴーティエ・ド・セルヴィルはその一枚を机に置き、長いこと見下ろしていた。
紙の下には、南方からの二つの報告が重なっている。
一つ。攻城砲兵の観測士官ヴェルネ中尉、戦死。以後、砲撃効果は激減し、砲兵隊は事実上の沈黙に入った——ブレモン大佐の、正直な報告である。
一つ。「敵城壁の損耗は限界に達しつつあり、我が方の圧力は着実に敵を追い詰めている」——輜重より後方の、モルゲンロート要塞司令部付から回された、誰かの見立てである。署名を見るまでもなかった。
そして宰相府は、二つのうち、読みたい方を読んだ。
砲が沈黙した。壁の修理が止まった(——観測手を失って、修理箇所を「見る目」がなくなっただけである)。刷り物への反撃には勝利が要る。艦隊は遅れている。ゆえに——壁は、今が最も弱い。
「論理と願望を継ぎ木すると、ああいう文章になる」
ゴーティエは、届いたばかりの写しを幕僚に読ませて、そう評した。評したところで、どうにもならなかった。文章の末尾には、見慣れた印璽が押されていたからである。
勅命。羊皮紙。
——南方派遣軍ハ、速ヤカニ城壁ヲ破砕シ、アードラズベルクヲ攻略スベシ。
総帥府は48時間、抵抗した。ゴーティエは攻城計画の兵力不足を数字で示し、観測なき砲撃の非効率を示し、二十年前の第一次攻防戦の戦訓——強襲による攻城の大失敗が、帝国自身の教範に刻まれていること——を示した。
「教範は陛下の御名に優先するのかね」
と、宰相は言った。それが、48時間の議論の全部だった。
勅命の転送状には、指揮系統の定めにより、陸軍総司令官の副署が要る。ジャン=バスティアン・ドゥラクロワは、ペンを取り、置き、もう一度取った。
「……わしが副署せねば、別の誰かが副署するだけだ」
と、老元帥は誰にともなく言った。
「ならばせめて、命令と一緒に届けてやれるものを付ける。工兵資材の優先配分。予備の軍医団。それから——撤収の裁量権。攻撃の中止は現地の判断に委ねる、の一文だ。この一文を紙に残すのに、わしは四十年分の貸しを使った」
息子に死ねという紙に、父親が付けられる餞は、それだけだった。
◇
勅命は、七日後、南方の幕舎に届いた。
ジャン=リシュアン・ドゥラクロワは、羊皮紙を二度読み、卓に置き、しばらく目を閉じていた。今度は、卓は引っくり返らなかった。怒りには型がある。スロテンの夜のそれは火だったが、この夜のそれは、もっと冷たくて重いものだった。
「ダルナン。幼年学校の三年次で、第一次アードラズベルク攻防戦について何と教わった」
「『準備なき強襲は、城壁の前で軍を溶かす』と。……教範第四巻、攻城戦例の第一章です」
「あの章を、誰が書いたか知っているか」
「……フォークレラン元帥と伺っています。先代総帥の」
「そうだ」
J=リシュアンは、羊皮紙を見た。
「大敗の年、あの人は大陸の反対側にいた。西の果ての、列島諸島連合王国との戦線だ。誰の差配でそんな遠くへ飛ばされていたのか——軍の古株はみな知っていて、誰も口にしない。兄の街が焼かれるのを、あの人は地図の上でしか見られなかった。帰ってきて、敗因の分析を命じられて、書いたのがあの章だ」
あの章は、二十年間、この街への再強襲を抑止し続けてきた。剣を向けられなかった男が、ペンで街に張った盾である。
「その盾を」と、元帥は言った。「書いた本人がまだ生きていて、帝都にいるのに——私が、勅命で踏み破る」
ダルナンは、何も言わなかった。言えることが、なかったのである。
J=リシュアンは地図台に向かい、作戦の算数を始めた。感情を挟む段階は終わった。命令は下り、抗弁は尽き、残っているのは「どうやれば一番死なずに済むか」だけである。
「観測手はもういない。遠くから壁の急所を突く砲撃は、できない。ならば砲を近づけるしかない。近接布置——壁から二百の距離に砲列を組み、一点に全門を集中する。二百の距離は、敵の銃の距離だ。砲手は撃たれながら撃つことになる」
「損害は」
「砲手の三割。それで、五日で壁の一箇所が崩せる——かもしれない。二十年前の連中も、同じ『かもしれない』を信じた」
元帥は、皮肉な事実を一つ、付け加えた。
「壁のどこが薄いか、どこの修理が新しいか——それを知っていた男の帳面が、あの壕に置き去りになった。回収の報告がない以上、いまごろ敵の卓上だろう。つまりこの攻撃で一番役に立つはずだった紙は、いま、敵の壁の弱点を塞ぐために働いている。……死んだ観測手の帳面を、大陸で一番欲しがっているのが我々だという冗談だ。誰も笑えんがな」
それから元帥は、地図の一点を指で叩いた。西城壁の、稜堡と稜堡の間。
「並行して、坑道を掘る。三本。二本は囮、一本が本命。壁の基部まで掘り進めて、火薬で足元から崩す。……砲撃で敵の耳を塞ぎながら掘るのが定石だが、我が方の砲は沈黙してしまった。静かな陣地で掘る坑道は、敵に聴こえる」
「では、坑道も囮に」
「そうだ。全部を半分ずつ信じさせる。砲列も、坑道も、どちらが本命か敵に選ばせて、選び損ねた方から壁を破る。……醜い作戦だ。数で押して、血で払う。私が最も軽蔑してきた種類の戦争を、私が指揮する」
J=リシュアンは、命令書の束に向かった。第七軍団、第九軍団、砲兵、工兵。一枚ずつ、署名していく。
ダルナンは、その手元を見ていた。徴発令に署名した夜から、元帥の署名は変わっていた。以前より、わずかに遅い。一枚ごとに、一呼吸置く。紙の重さを量ってから署名する男の手つきだった。
最後の一枚に署名して、J=リシュアンは言った。
「ダルナン。攻撃前夜、全軍に温食と、酒を半量」
「……飲ませるのですか」
「明後日の夜明けに壁へ走らせる男たちだ。今夜くらいは、いい夢を見させてやれ」
ダルナンが下がりかけて、足を止めた。
「閣下。転送状の末尾を、ご覧になりましたか」
J=リシュアンは、羊皮紙をもう一度取った。勅命の本文の下、事務的な転送文言の連なりの中に、一文だけ、毛色の違う条項が挟まっていた。
——攻撃ノ中止ハ、現地司令官ノ裁量ニ委ヌ。
誰が挟んだ一文かは、書いていない。副署の名を見れば足りた。
「……老人が、また貸しを使ったな」
元帥は、それだけ言った。声は平坦だったが、羊皮紙を巻き直す手が、その一文の上だけ、わずかにゆっくり動いた。命令書の山の中で、あれだけが、命令ではなかった。あれは手紙だった。
◇
同じ頃、西城壁の内側で、サーシャ・グレンツは地面に耳を付けていた。
正確には、耳ではない。浅く掘った穴に水を張った盤を沈め、その水面を、灯りにかざして見ているのである。テオドールとライネルは、工兵班長の奇行を黙って見守った。奇行に見えるものが奇行だったためしが、この先輩にはないからである。
水面が——震えた。
目を凝らさなければ分からないほど、かすかに。だが、確かに。等間隔の、小さな、小さな波紋。
「……いるね」
サーシャは顔を上げた。いつもの軽さが、声から抜けていた。
「掘ってる。土の音だ。つるはしが岩を噛むと、音は土を伝って、水に出る。……距離はまだ遠い。方角は——三つ」
「三つ?」
「三本掘ってるのさ。ご丁寧なことだ」
サーシャは立ち上がり、汚れた膝を払った。
「テオ、こうなると話は簡単だよ。砲が黙ったのは、諦めたからじゃない。別の手に切り替えたからだ。砲を近づけてくるか、土の下から来るか、たぶん両方だ。……壁ってのはね、上を越えるか、破るか、下をくぐるかしかない。上は一度失敗した。なら残りの二つを、いっぺんに来る」
「対策は」
「聴き続ける。三本のうち、本気の一本を探す。見つけたら——」
サーシャはにやりと笑った。この状況で笑えるのは、この街でこの人だけである。
「こっちからも掘る。向こうの坑道の下にね。で、先に火をつける。壊すなら、安くだ」
その夜、支隊の竈は、いつもより長く火を焚いていた。
ミラ・ロウは救護所の棚を数え直していた。包帯、焼酎、針と糸、副木。数え終えて、もう一度数えた。「明日から忙しくなる」と軍医は言い、助手の少女に、持ち場を三度確認させた。「いい? 砲撃の日は、あたしたちは死なせない仕事をするの。怖がるのは、その後でいいから」
ティル・ローンハルトは、双剣を研いでいた。研ぎながら、隣の新兵にいつもの軽口を叩いた。
「破口ってのはな、いい場所だぜ。狭くて、敵が一列でしか来られない。つまり、右と左が両方仕事をする、双剣使いの唯一の職場だ」
新兵は笑った。ティルも笑った。壁の外、二百の闇の向こうで、砲車の車輪の音が、夜通し、近づいたり止まったりしていた。
テオドールは眠れぬまま、壁の上に立った。
風は、まだ死んだままである。星の下で、敵陣の篝火が、いつもより多い。ライネルが隣に来て、しばらく黙って数えていた。
「……篝火一つで二十。昨日より、四十は増えてる。後方の竈の煙も倍だ」
「数えるまでもないさ」と、テオドールは言った。「あれは『明日来る』と書いてある火だ」
振り返れば、市街の方でも、消えない灯が一つあった。救護院である。ミラの言う「忙しくなる明日」のために、今夜のうちから湯を沸かし、寝台を空け、灯を落とさずにいるのだ。壁の外の火は明日を脅すために燃え、壁の内の灯は明日を受け止めるために点いている。同じ火なのに、と、テオドールは思った。
あの灯の下のどこかに、アルモナがいる。それを確かめる術はないのに、確かめるまでもなく分かるのが、不思議だった。
夜明けの一刻前、大気の底で、大地が一度だけ、低く咳をした。
坑道の先の、試し爆破の音だった。




