第23話「風のない朝」
その頃には、西城壁の暮らしは決闘を中心に回るようになっていた。
水汲みの時間は毎日ずらす。狭間を覗くときは覗き布を使う。壁の上を歩くときは、歩幅を変え、立ち止まる位置を変え、できれば歩かない。支隊の朝礼でライネルが読み上げる注意事項は、この十日で三倍の長さになった。
「面倒くせえなあ」と、若い兵が漏らした。
「面倒がって死んだ奴の帽子が、二つあっちに転がってる」と、古株が返した。それで会話は終わりである。
対岸の観測壕の男は、正確だった。正確なだけではない。勤勉だった。夜明け前に壕へ入り、日没後に出る。曇りの日も、砲撃のない日も。遠眼鏡と帳面だけを連れて、うちの壁を——テオドールたちの暮らしを、一頁ずつ写し取っていく。
そして、その帳面の成果は、砲弾の形で返ってくるのである。
この十日、ブレモン砲兵隊の射撃は目に見えて意地が悪くなった。水場の裏、弾薬の通り道、修理したばかりの継ぎ目。壁の「痛いところ」だけを、少ない弾数で正確に叩いてくる。工兵が夜通しで直した第三稜堡の継ぎ目が翌朝一番の三発で崩されたとき、サーシャは石粉を被ったまま、感心とも憎悪ともつかない声で言った。
「見ろよテオ、いい仕事だ。壁ってのは、どこを直したかが一番の弱点なんだ。直した場所を知ってる奴が向こうにいる限り、こっちは永遠に昨日の傷を殴られる」
「……つまり」
「つまり、あの目を潰さない限り、砲とのいたちごっこはこっちが負ける」
サーシャはそう言って、対岸を顎で示した。それから、付け足した。
「フリッツに任せな。ああいうのはね、テオ。頭数でやると、頭数だけ死ぬんだ」
フリッツは、任されていた。
支隊一の狙撃手は、この十日、ほとんど喋らなくなっていた。喋らないかわりに、壁の上のあらゆる場所から対岸を見た。銃を持たずに、である。撃たない日のほうが多かった。撃っても外れた。相手も撃ち、フリッツの覗き布の縁で火花が散った。互いに、二発ずつ。それだけのやりとりに、十日かかった。
「当てる気がないのか」と訊いた新兵に、フリッツは首を振った。
「今のは挨拶だ。……本番は一発しかねえんだよ、坊主。向こうもそれを知ってる。だからお互い、まだ財布を開かねえ」
夜になると、フリッツはマリアの卓に通った。無口な計算屋は測遠具の記録を広げ、二人は言葉少なに数字を突き合わせる。距離四百十二。高低差、こちらが上に六。朝の気温での装薬の癖。マリアは訊かれたことにだけ答え、一度だけ、訊かれていないことを言った。
「……風が死んだ朝は、湿度が高い。弾は、思ったより落ちる」
「知ってる」
「知ってても、言う。それがあたしの仕事」
フリッツは、笑って頷いた。それが二人の交わした、一番長い会話だった。
◇
フリッツ・オルドは、山で育った。
親父は熊を獲る猟師で、最初に教わったのは撃ち方ではなく、待ち方だった。獲物ってのはな、フリッツ。てめえの都合じゃ出てこねえ。山の都合で出てくる。だから猟師の仕事は、山の都合を覚えることだ——。
対岸の男は、猟師ではない。それは撃ち方で分かる。あれは学校の撃ち方だ。図面と数字で組み立てた、きれいな射撃。だが恐ろしいのは、あの男が学校の撃ち方のまま、猟師の待ち方を身につけていることだった。
(帳面か)
と、フリッツは思う。あの男は山の都合を、帳面で覚えるのだ。俺が骨で覚えることを、あいつは紙で覚える。どっちが上ってもんじゃない。ただ、俺の骨が読み違えるとき、あいつの紙も読み違えていてくれるかどうか——勝負はそこにしかない。
十日のやりとりで、互いの癖は割れていた。
フリッツは知っている。男は撃つ前に、遠眼鏡を置いて素目で風を見る。癖だ。遠眼鏡の光が消えてから三つ数えた時が、一番危ない。
男も知っているはずだ。フリッツが撃つ前に、必ず一度、銃口をわずかに下げること。癖だ。分かっていても直らない。親父の「山を狙うな、獲物を狙え」が骨に入っているからだ。
互いの癖を知り尽くした二人の射手に残るのは、もう条件だけである。
距離、四百と少し。フリッツのG783改なら届く。向こうの銃も届く。となれば条件とは、つまり——風だ。
四百の距離で勝負を分けるのは風であり、風は山の都合であり、山の都合は誰にも命令できない。フリッツは十日、風を待った。正確には、風が死ぬのを待った。
こちらの海風は朝に凪ぐ。だが完全に死ぬ朝は稀だ。そしてフリッツには分かっていた——風が死ねば、条件は互いに最良になる。俺の弾が真っ直ぐ飛ぶ朝は、あいつの弾も真っ直ぐ飛ぶ。
(それでいい)
と、フリッツは思った。風のある日に撃って、風で勝つのは、猟だ。風のない朝に撃って、腕で決まるのは——ありゃあ、もう猟じゃねえ。名前は知らないが、猟じゃねえ何かだ。
その朝は、雨上がりに来た。
夜のうちに通った驟雨が埃を洗い落とし、夜明けの空気は硝子のように静止していた。篝火の煙が、真っ直ぐに、一切揺れずに立ち上っている。
風が、死んでいた。
フリッツは、いつもの持ち場ではない狭間に、夜のうちから入っていた。頬付けをし、呼吸を三つ数え、待った。
対岸の壕の縁で、遠眼鏡の光が——消えた。
(素目で風を見てる。……見ろ見ろ。今日は何もねえぞ)
一つ。
二つ。
フリッツは銃口を、わずかに下げた。分かっていても直らない、骨の癖だ。だからフリッツは、癖のあとにもう一つだけ動作を足した。この十日で初めて足す、帳面に載っていない動作——下げた銃口を、戻さずに、そのまま下から掬い上げるように据え直す。
三つ。
二つの銃声は、壁の上の誰の耳にも、ほとんど一つに聞こえた。
◇
テオドールが駆けつけたとき、フリッツは狭間の下に、壁に背を預けて座り込んでいた。
胸の右側が、濡れていた。軍医班が走ってくる。フリッツはそれを目の端で見て、無駄足だ、というふうに小さく首を振った。
「……テオ」
名前呼びは、サーシャの専売のはずだった。フリッツが支隊長を名前で呼んだのは、これが最初で最後である。
「向こうの壕、見てみな。……遠眼鏡が、倒れてる」
テオドールは覗き布越しに対岸を見た。壕の縁で、鈍い光がひっくり返って、朝日を空へ撥ね返していた。人影は、二度と立たなかった。
「な。……言った通りだろ」
フリッツは、笑った。血の気の失せていく顔で、職人が仕事を検分する目をして。
「銃は、嘘を、つかん。——撃ち手が、嘘を、つくんだ。……俺は最後に、一つだけ、嘘をついた。癖の、あとに、もう一動作。あいつの帳面に、載ってねえやつ……」
それが、支隊一の狙撃手の最後の言葉だった。軍医班が届いたとき、フリッツ・オルドはもう、自分の設計した銃を抱いたまま、動かなかった。
サーシャは、遅れて来た。
来て、しゃがんで、フリッツの手から銃をそっと外し、機関部を検めた。撃鉄を戻し、薬室を空にし、布で拭いて、膝の上に置いた。工兵が道具を仕舞うときの手つきで、最後まで、そうした。
「……フリッツ」
名前を呼ぶ人が、名前を呼んだ。それきり、何も言わなかった。
◇
その夜、イルザの偵察班が対岸に出た。帝国軍は観測手の遺体を後送し、壕を放棄していた。十日間、西城壁を写し取り続けた壕に残っていたのは、空の薬莢と、雨に濡れた砂嚢と——帳面が、一冊。
回収された帳面は、恐ろしい代物だった。
西城壁の狭間の番号。歩哨の交代時刻。水汲みの経路の変遷。修理箇所の一覧。フリッツの持ち場と、その癖——「射手は発砲前に銃口を下げる。修正は不要、それが照準である」。几帳面な、学校で習った字だった。頁の隅には日付と、風向と、湿度まで。
最後の頁には、昨日の日付で、一行だけ書かれていた。
「明朝、風が死ぬ。良い射手だ。」
署名があった。エミール・ヴェルネ、と読めた。階級は中尉。歳も、顔も、分からない。分かるのは、字が几帳面で、仕事が正確で、最後の朝に敵を「良い射手だ」と書いた男だった、ということだけである。
帳面の処遇は、短い相談で決まった。焼く、という声もあった。壁の弱点が全部書いてある紙だから、当然の声である。だがライネルが、頁を繰りながら言った。
「逆だ。これは、うちの壁の一番いい健康診断書だぞ。敵が十日かけて書いてくれた」
帳面は工兵班と猟兵班に回覧され、書かれた弱点は片端から潰されることになった。猟兵班の後任たちは、以後この帳面で「見られる側の作法」を学ぶ。敵の教科書で育つ後任、というものが、この世にはあるのだ。
テオドールはその夜、自分の帳簿を開いた。
借方に、書いた。——フリッツ・オルド。
ペンが、そこで止まった。長いこと止まって、それから、その下に小さく、もう一行書いた。
——エミール・ヴェルネ。
敵の名を自分の帳簿に載せる作法など、どこにもない。だが、載せない作法も、どこにも見つからなかった。二人は同じ朝の、同じ静けさの中で、同じ仕事の果てに死んだのだ。頁の上でまで、壁を挟んでやる理由が、テオドールには思いつけなかった。
翌朝の点呼で、ライネルは名簿を読み、最後に一度だけ、その名を読んだ。
「——フリッツ・オルド」
誰も、応えない。それが、呼び終いである。
弔いの静けさの中で、テオドールはふと、あることに気づいた。
砲声が、しない。
昨日まであれほど意地悪く壁の傷を叩いてきたブレモンの砲が、今朝は一発も咳をしていない。目を失った砲兵は、無駄弾を撃たないのだ。壁の上に、二十年ぶりというほどの静けさが横たわっていた。
「……静かだな」と、ライネルが言った。
「静かすぎる」と、テオドールは言った。
目を失った砲は、黙る。だが黙った砲の報せを受け取る帝都が、それをどう読むか——砲が黙るほど壁は弱っている、と読む者たちがいることを、テオドールはまだ知らない。
南の空は晴れて、風は、まだ死んだままだった。




