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アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第二章「第二次アードラズベルク攻防戦」

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第22話「海図」

 愚策——。


 その二文字が厚い絨毯に吸われて消えた後、部屋には長い沈黙が満ちた。


 ゴーティエは、癇癪を予想した。外れた。オーギュスト・ド・レオニエは怒鳴らず、ゆっくりと椅子に座り直し、指を組んだのである。組んだ指の上に、薄い笑みが載っていた。五十年、人を格下として扱い続けてきた男の最も冷たい応対は、怒声ではない。丁寧さである。


「……ほう」


 と、宰相は言った。


「愚策、とは。説明してくれるかね、大将。私にも分かるように——なに、ゆっくりで構わんよ」


 挑発だった。だがラ=マリニエールは、挑発というものの受け取り方を知らない男である。説明しろと言われたから、説明を始めた。それだけだった。


「航路、補給、艤装。三つの点から、本計画はそもそも成立しておりません」


 提督は、海図の皺を手で伸ばした。


「まず、航路。帝都からアードラス湾まで、大陸を半周する回航です。順調に走って九十日——海が順調だったことは、私の知る限り一度もありませんが。しかも出港が一月遅れるごとに、南の海は逆風の季節に食い込む。政治の日程で決められた出港日は、海の日程には相談されておりません。


 次に、補給。艦隊三十隻、乗員およそ九千。九十日分の水と糧食は樽にして四万を超えますが、旧式艦の船倉に入るのは三万まで。残りは途中の港で買う勘定です。その中立の寄港地が七つ——うち、補給の前契約が結べた港は、零。理由は分かりませんが、南方航路の港では今、食糧と索具の相場が静かに上がり続けています。誰かが先回りして買っている、としか思えない動きです。買えなければ、新鮮な食糧なしの九十日。壊血の病人が乗員の三割出ます。これは推測ではなく、海軍の記録にある数字です。


 最後に、艤装。完了率は本日時点で六割。徴用商船の水夫たちは、戦列運動の合同訓練を一度もしていません」


 提督は、そこで一度、言葉を切った。切って、それまでとわずかに違う声で、続けた。


「……ここから先は数字ではなく、私の見立てです。お聞き流しくださっても、結構。——敵は、湾を知り尽くした武装船団が約四十隻。ファルケンハイン商会の傭兵部門、その海上部隊です。数ではこちらが勝ります。ですが練度の話をするなら、正直に申し上げて、太刀打ちできません。あちらは荒天の南海を二十年、積み荷と共に生き延びてきた船乗りたちです。こちらは、樽の数も揃わぬ艦隊でそれに当たる。


 加えて、技術です。私が知っていた頃の彼らと、今の彼らは、別物です。ここ数年の伸びが尋常ではない。城塞に新たに据えられた防衛砲塔——入ってくる報告と絵図から解析する限り、砲身の造りが我らの規格の外にある。艦砲戦になれば、おそらく射程で負けます。届く砲と届かぬ砲が撃ち合えば何が起きるか、これは数字を待つまでもありません。


 そして、それが起きた場合。陛下直轄の第一艦隊と、東方属国に睨みを利かせる第二艦隊を除けば——帝国は、海の主力のすべてを失います」


 沈黙が、一段深くなった。提督は、構わず結んだ。


「仮に、その全てを乗り越えて勝ったとしても。この艦隊には、帰路の糧食が積めません。本計画は、勝っても艦隊を失うのです。負ければ——言うまでもありません」


 部屋は、静かだった。


 数字が読み上げられる間、オーギュストは一度も海図を見なかった。指の宝石を撫でながら、窓の外の、手入れの行き届いた庭園を眺めていた。数字を聞かないという聞き方を、この男は五十年かけて完成させていたのである。


 ゴーティエは軍人として、その数字が一つ残らず正しいことが分かった。頭の中で三つまで検算し、四つ目で検算をやめた。検算するまでもない数字を、検算するまでもなく揃えてくる——それがこの提督が三十代で大将まで上がった理由であり、そして今から免職される理由でもある。正しさがこの部屋で何の役にも立たないことを、政治を知る男は、分かっていた。


「……終わりか」


 オーギュストの声は、氷のようだった。


「終わりです。結論は先に申し上げました。この時期の艦隊派遣は、愚策です」


「貴様の数字は、忠義を測れんようだな」


 宰相は、立ち上がった。


「艦隊は戦の道具である前に、政の道具である。南の海に帝国の帆柱が並ぶ——そのことに意味があるのだ。市壁の中の叛徒どもの心をへし折り、諸都市に帝国の余力を示し、陛下の御名に勝利を献ずる。貴様の数字ごときが、その意味に釣り合うものか」


「九千人が乗ります」


「兵は乗るのが仕事であろう」


 それから宰相は、嗤った。思い出したように、ゆっくりと。


「……ああ、そうであったな。貴官は、あの街に飼われていた男だった。五年。五年も叛徒の飯で育てば、舌もそちらの回り方を覚えるか」


 侮辱としては、上等の部類だった。並の軍人なら剣の柄に手が行くところである。


 ラ=マリニエールは、眉一つ動かさなかった。


「あの街の飯は、帳簿で買われた飯でした」


 と、彼は言った。


「捕虜の私の一食まで、費目を立てて帳簿に載せる街です。閣下——その帳簿を二十年つけ続けた者たちを相手に、帳簿なしの艦隊を出すことの意味を、私は数字で申し上げたのです」


「——衛兵ッ!」


 オーギュストの癇癪は、皇帝の病室以外では有名である。呼び鈴が引き千切れる勢いで鳴り、扉が開き、槍が入ってきた。


「その者を反逆咎で捕縛せよ! 軍務への誹謗、宰相府への——」


 槍より先に、ジャン=バスティアンが動いた。老元帥は、いつの間にか提督と槍の間に立っていた。老人の移動というものは、若者が思うより速いのである。


「宰相殿。軍人が軍事の数字を述べて反逆になるのなら、帝国の幼年学校は反逆者の養成所ですな。わしも六十年、反逆の勉強をしてきたことになる」


「元帥は下がられよ! これは宰相府の権限で——」


「——いや、続けてくだされ」


 声は、開いたままの扉から来た。


 衛兵たちが振り向いて、凍った。


 戸口に、旅装のままの長身の老人が立っていた。白髪を短く刈り、東方の陽に灼けた顔。杖も持たず、供も連れず、散歩の途中のような立ち方で——だがその立ち姿一つで、部屋の中のすべての階級が、一段ずつ下がった。


 ラウル・ド・フォークレラン。先代総帥。東方総督。この帝都に、いるはずのない男である。


「ちょうど『反逆』のところからで構わん。……いや、良い講義を聴いた。航路、補給、艤装。わしが総帥だった頃は、ああいう報告を上げてくる者には勲章を出したものだが——今は槍を出すのか。帝都の流儀も、変わったものだな」


「フォークレラン殿……!」


 オーギュストの声から、癇癪が抜け落ちた。抜け落ちた穴に、警戒が満ちていくのが、傍目にも分かった。


「東方に、おられるはずでは」


「陛下のお召しでな。昨夜、着いた」


 その一言の重さを、部屋にいる全員が正確に量った。宰相府は、皇帝の病室へ通じる扉の順番を差配することで、この帝国を動かしている。その差配の外で、病床の皇帝が先代総帥を呼んだのだ。誰の取り次ぎも通さずに。


「挨拶に寄ってみれば、扉越しに面白いものが聞こえてきた。それだけのことだ。……ときに宰相殿。この提督の身柄、わしが預かろう。東方は、人が足りん」


「……この者は、軍務を誹謗——」


「不服かな」


 ラウルは、笑いもせずに言った。


「不服なら、陛下に伺いを立てられるがよい。わしはこれから、病床に上がる。——ついでに、聞いてきてやろうか」


 帝国で元帥の杖を握る者は、大元帥たる陛下を含めて六人である。陛下は病床に。海軍総司令官は艤装なかばの艦隊に。……そして残る三本の杖が、いま、この部屋で提督の側に並んで立っていた。宰相の手にあるのは、名誉という名の飾りの杖、一本である。


 数の勘定なら、宰相は誰よりも速かった。


「……免職」


 と、オーギュストは言った。絞り出すように。


「エティエンヌ・ラ=マリニエール海軍大将を免じ、予備役に編入する。理由は——健康上の都合だ。それでよかろう、元帥」


「結構」


 提督は、敬礼した。それから海図を、丁寧に畳み始めた。もう自分のものではない海図を、しかし皺一つ付けずに畳むのが、この男の性分だった。


「総帥殿は、何用でしたかな」


 オーギュストは、ようやくゴーティエを見た。ゴーティエは、レオニエ中将の転出の追認と、艦隊出港の延期、二つを求めて来たのである。一つ目は「軍のことは軍で始末されたのであろう。ならばそれまでのこと」と、実の息子への関心の薄さだけが際立つ返事で終わった。


 二つ目には、宰相は一枚の紙を見せた。羊皮紙だった。


「艦隊は出る。勅命である」


「……陛下は、あの海図を御覧になったのか」


「陛下は宰相を御覧になった」


 と、オーギュストは言った。


「それで、足りる」


   ◇


 宰相府の門を出ると、夏の初めの陽が白かった。


「……これからどうする」


 ゴーティエが訊くと、免職されたばかりの提督は、少し考えて、答えた。


「釣りでも。……いえ、東方へ発つ前に、今日の数字を紙に残します。誰も読まぬでしょうが、書かれたものは、残りますので」


 提督は畳んだ海図を、ゴーティエに差し出した。


「総帥府に置いていただけますか。……いつか誰かが、読む日のために」


 ゴーティエは受け取った。受け取ってしまえば、それは総帥府の文書である。宰相府にも、燃やせない。


 書き残す、という言葉を、南の街の連中も同じ頃、同じ意味で使っていることを、この場の三人はまだ知らない。


「ジャン=バスティアン。南方の倅殿に、この顛末を何と書く」


「真実を、そのまま書くさ」


 老元帥は、白い陽に目を細めた。


「あれはもう、真実で立っていられる男に育った。……親の欲目でなければ、な。むしろ心配なのは」


 老人は、言葉を切って、南の空を見た。


「真実で立っている男の足元を、帝都が掘り続けていることの方だ」


   ◇


 その南の街——アードラズベルクの西城壁は、夏の初めの風の中にあった。


 テオドール・フォン・ファルケンハインは、二ヶ月ぶりに壁の上で丸一日を過ごしていた。編成替え、補充兵の訓練、兄への報告、奉公人たちの宿営の差配——地上の仕事が続いた後の壁の上は、空気の味が違う。硝煙と石灰の匂いに、ほんの少しだけ、海の匂いが混ざる。


 朝の定例報告は、ライネルが読み上げた。異状なし、欠員なし、弾薬の受領は予定通り。呼び終いのない点呼が、こんなにいい音だとは、去年の自分は知らなかった。


「顔が緩んでるぞ、テオドール」


「緩めているんだ。締めっぱなしの革具は、切れる」


「格言ぶるな。マリアの受け売りだろう、それは」


 図星だったので、テオドールは答えなかった。狭間の向こうでマリアが、聞こえていないふりの横顔で、口の端だけ笑っていた。


「テオ、屈め」


 サーシャの声と同時に、テオドールは屈んだ。頭のあった高さを、一拍おいて銃弾が通り、背後の胸壁で石の粉が散った。


「……先輩。今のは」


「対岸の観測壕。新顔だよ。三日前から入った」


 サーシャは胸壁の狭間から、対岸——帝国軍の塹壕線を顎で示した。距離はおよそ四百。狭間の奥に、鈍く光る筒が見えた。遠眼鏡である。


「観測士官だ。砲兵の目。ただの目じゃない——うちの壁の狭間の位置を、片っ端から帳面に付けてる。誰がどの狭間から覗くか、何時に覗くか、までな」


「砲の観測手が、狙撃も?」


「するんだよ、あれは」


 サーシャは狭間から目を離さずに続けた。


「橋と同じさ、テオ。よく出来た仕事ってのは、作る目と壊す目が同じなんだ。うちの壁を一番よく見てるのは、うちの壁を一番壊したい奴でね。……いい目だよ、あれは。大嫌いだけど」


 答えたのは、フリッツだった。支隊一の狙撃手は、いつもの持ち場で、いつものように長銃を抱えて壁に背を預けていた。ただ、いつもと違うことが一つあった。フリッツが、壁から頭を出していないのである。


 フリッツは山育ちの猟師の出である。銃を教範で覚えた兵と、獲物の癖で覚えた猟師の違いは、外した後に出る。兵は照尺を疑い、猟師は自分の読みを疑うのだ。


「三日で、うちの歩哨の帽子が二つ飛んだ。壁の上を歩く奴の癖を読んでやがる。あっちは帳面で読む。俺は勘で読む。……昨日、俺も一発返した。狭間の縁で火花が散って、外した」


 フリッツは、天を仰いだ。


「そしたらあいつ、遠眼鏡をこっちに向けて——ゆっくり手を振りやがった」


「……手を?」


「覚えたぜ、って意味だ。射手同士にしか通じねえ挨拶だよ」


 フリッツは笑っていた。だが笑いの底の温度が、テオドールがこれまで聞いたことのないものだった。射撃の名手が、生まれて初めて、自分と同じ種類の生き物に出会った時の温度である。


「テオ。頼みがある」


 と、フリッツは言った。


「あの観測壕、しばらく俺の相手として空けといてくれ。班のもんには手を出させるな。……ありゃあ、二人でやる仕事だ」


 テオドールは、対岸の狭間を見た。鈍い光は、もう消えていた。だが見られている、という産毛の感覚だけが、首筋に残った。


 壁を挟んで、大砲と軍旗の戦争の脇で——たった二人だけの、静かで長い決闘が、始まろうとしていた。

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