第21話「署名」
幕舎の中は、嵐の後だった。
卓は脚を天に向けて転がり、南方全図は千切れて三枚になり、硝子の水差しは絨毯の上で光る破片になっていた。従兵は誰も片付けに入れない。入れる空気ではなかったのである。
その嵐の中心で、ジャン=リシュアン・ドゥラクロワは、直立していた。
二十三歳の帝国元帥は、呼吸を数えていた。十まで数えて、駄目だった。二十まで数えて、まだ駄目だった。三十を数え終える前に、幕の入口が開いた。
「お呼びと伺いましたので」
ジュール・ド・レオニエ中将は、悪びれもせずに入ってきた。転がった卓を一瞥し、眉を上げ、それから敬礼をした。敬礼だけは、教範通りだった。この男の身体で教範通りに動くのは敬礼だけなのである。
「スロテン村」
ジャン=リシュアンは、前置きを全部捨てた。
「説明せよ」
「反乱鎮圧です」
即答だった。用意してきた答えだった。
「叛徒の村が兵に手をかけました。兵一名死亡。よって鎮圧し、処断しました。軍律の定めるところです」
「村を焼き、女子供を売ることが、か」
「戦時の処分権の範囲内かと。それに——」
ジュールは、懐から紙を出した。丁寧に畳まれた、命令書の写しである。
「そもそも私は、閣下の命令を執行したまでですので」
彼は、読み上げた。
「『南方派遣軍は、作戦継続に必要なる限度に於いて、占領地域の物資を徴発することを許可す』——署名、ジャン=リシュアン・ドゥラクロワ元帥。……この紙に従って、麦を集めに行っただけです。抵抗したのは、向こうですよ」
幕舎が、静まった。
ジャン=リシュアンは、自分の署名を見た。自分の手が書いた、自分の名前を。それが今、村四つ分の灰の上に、旗のように立てられているのを。
いつもなら、ここで皮肉の一つも出るのである。幼年学校で何を学ばれたのか、とか、貴官の読解力は敵より恐ろしい、とか。だがこの夜、帝国で最も舌の回る元帥は、皮肉を一つも思いつけなかった。皮肉というものは、余裕の産物なのだ。
「……中将殿」
声は、静かだった。静かなまま、刃だった。
「私はいま、貴官を軍規会議にかける手続きを、頭の中で三度組み立てた。三度とも、貴官は壁の前に立つ。銃殺だ。略奪、虐殺、住民の売却、報告の改竄——どれか一つで足りる。貴官は四つ揃えた」
「……宰相府が」
「そうだ。宰相府が黙っていない」
ジャン=リシュアンは、認めた。認めるという行為が、これほど苦いものだとは知らなかった。
「貴官を撃てば、父君は私を潰しにかかる。私だけならくれてやるが、南方派遣軍二万の指揮系統ごと潰される。軍規と貴官の命を天秤にかけたいのに、貴官の皿には貴官の命しか載っていないのに、私の皿には二万人が載っている。……これが、貴官が生きて今夜この幕舎を出られる、唯一の理由だ」
ジュールは、少しだけ青ざめ——それから、生き延びたと分かった瞬間、口元を戻した。この切り替えの早さだけは、ある種の才能である。
「では、私は輜重護衛に戻れば」
「戻らんでいい」
ジャン=リシュアンは、新しい命令書を卓——の代わりの、従兵が慌てて運んできた箱の上で、書いた。ペンを走らせるその手が、一度も震えなかったことを、彼は生涯、少しだけ誇りに思うことになる。
「ジュール・ド・レオニエ中将。貴官を本日付で、モルゲンロート要塞守備隊司令部付とする。即刻赴任せよ」
「……モルゲンロート?」
ジュールは、耳を疑った。
「あの、岩と倉庫の要塞に? 私に、倉庫番をせよと?」
「大陸最強の要塞の守備は、帝国の南方経営の要である」
ジャン=リシュアンは、書式通りの言葉で言った。書式通りの言葉というものは、侮辱を運ぶのに一番適した器なのである。
「あそこには壁と倉庫しかない。壁と倉庫は貴官に殺されないし、貴官を撃ちもしない。互いにとって、これ以上の配属があるか」
「————」
「復唱は要らん。出ていけ」
ジュールは、敬礼した。教範通りの、美しい敬礼だった。そして幕の前で立ち止まり、振り向いて、言った。
「……閣下。あの空の納屋の買い主の調べ、続けさせていただきますよ。要塞勤めは、暇でしょうから」
彼は出ていった。ジャン=リシュアンは知らない。いま自分が、商会の糸を追う男を、大陸で最もその糸が濃く集まる場所へ、自分の署名で送り込んだことを。
◇
従兵たちが卓を起こし、地図の千切れを継ぎ、破片を掃き出していく間、ジャン=リシュアンは幕舎の隅の椅子に、深く沈んでいた。
ダルナン少佐だけが、残っていた。
「……ダルナン。私は今夜、間違えたか」
「処分のことでしたら、あれが上限です。閣下はご自分の階級で買える最も高い処分を、お買いになりました」
「そうではない」
元帥は、手の中の紙を見ていた。ジュールが置いていった、命令書の写しである。
「これだ。この署名だ。……徴発令に署名した時、私は分かっていた。飢えた二万を村々に放てば、どこかで必ず、こぼれる。こぼれた先がどうなるかも、分かっていた。分かっていて、署名した。ジュールは私の命令を歪めたのではない。私の命令の、一番暗い読み方を、そのまま実行しただけだ」
「閣下」
ダルナンは、静かに言った。
「閣下の署名は、徴発を命じました。惨劇を命じてはおりません」
「同じことだ。軍隊にとっては違っても、焼かれた村にとっては同じことだ」
「……では、次の署名で」
ダルナンは、箱の上に、三枚の紙を揃えて置いた。
「全軍への軍規再徹底令。被害村落への賠償台帳の作成令。そして、レオニエ中将の転出令。閣下が今夜署名なさる紙は、三枚ございます。三枚とも——昨日の一枚より、重うございます」
ジャン=リシュアンは、副官の顔を見た。それから、三枚の紙を見た。
賠償台帳。焼けた村に、金を払う。金で戻るものは何一つないと知りながら、それでも帳面を作り、名前を調べ、払う。敵に、である。帝都が知れば嗤うだろう。宰相府は激怒するだろう。
「……賠償の原資は」
「南方派遣軍の元帥給与から、と書いてございます。誰にも文句は言わせません」
「貴官は私の財布に署名させる気か」
「閣下の署名が一番安く済む紙を、選んだつもりです」
ジャン=リシュアンは、この夜初めて、笑いに似た息を漏らした。それから、三枚に、続けて署名した。
ペンを置いて、彼は幕の外の闇を見た。北の空は、もう煙を上げていない。上げるものが、もう残っていないからである。
「アードラスヴェーアは、これを刷るぞ」
と、彼は言った。敵を正式名で呼ぶのは、この戦場で彼一人である。
「スロテンを、紙に刷って、大陸中に撒く。私が奴らの立場なら、そうする。……そうなれば、この戦争は変わる。壁を挟んだ戦争が、大陸中の食卓の上の戦争になる」
「止められますか」
「輪転機は撃てん。撃てば、その音ごと刷られるだけだ」
◇
同じ頃——帝都ヴァルニア。
総帥府の執務室で、ゴーティエ・ド・セルヴィルは、二通の報告を読み終えた。
一通は、軍の指揮系統を正しく上ってきた、ジャン=リシュアンの公式報告。スロテンの惨劇、処分の内容、賠償台帳の件まで、隠さず書いてある。もう一通は、監察部が独自に上げてきた詳報である。二通は、細部まで一致していた。前線の元帥は、何一つ盛らず、何一つ削っていなかった。
問題は、三通目が存在することだった。宰相府にだけ届いた、ジュールの私信。そこでは惨劇が「反乱の断固たる鎮圧」になり、転出が「重要拠点への栄転」になっているという。
ゴーティエは、報告書を閉じた。閉じる前に、末尾の署名を長いこと見ていた。前線の若い元帥は、自分の失点を一行も削らずに書いてくる。帝国中の将官が栄達のために報告を磨き上げるこの時代に、である。
(軍規は軍の背骨だ。折れた背骨で立っている振りをする軍隊から、先に死ぬ)
「……行くぞ」
ゴーティエは立ち上がった。老元帥ジャン=バスティアン・ドゥラクロワが、暖炉の脇から腰を上げた。この老人は今日、たまたま総帥府に来ていた——という建前で、朝からずっとそこに座っていたのである。息子の報告が届く日を、父親は知っていたのだ。
「わしも行こう」
「殴り込みに立会人は要らんぞ、ジャン=バスティアン」
「殴り込みだから要るのだ。おぬしが本当に殴った時、引き剥がす者がな」
宰相府の廊下は、奥へ進むほど絨毯が厚くなる。足音が消え、声が消え、最後には戦争の音も消える。この廊下を設計した者は、権力というものをよく分かっていた。
ゴーティエは取り次ぎを待たなかった。両開きの扉を、自分の手で開けた。
「宰相殿。南方の件で——」
言いかけて、止まった。
部屋には、先客がいた。
執務机の上に、見慣れぬものが広げてある。海図だった。大陸の南をぐるりと回る、長い長い航路に、誰かの手で几帳面な書き込みが入っている。そしてその海図を挟んで、宰相オーギュスト・ド・レオニエの向かいに、一人の軍人が立っていた。
潮灼けした顔の、三十代後半の男。海軍の礼装。エティエンヌ・ラ=マリニエール海軍大将——この歳で大将まで上がりながら宮廷に後ろ盾を一人も持たない、帝国海軍きっての異端児である。若き日に南方で捕虜となり、五年を「反乱都市の客」として過ごした経歴が、履歴の染みとして今も宮廷でささやかれている。もっとも本人は、染みと呼ばれるその五年間だけが自分の履歴の中で読む価値のある頁だと思っている節があった。
「おお、総帥殿。ちょうどよいところに」
オーギュストは、乗り込んできた男たちの用件を訊きもせず、上機嫌に手を広げた。この男の上機嫌は、大抵、誰かにとっての凶報である。
「いま、良い人事の話をしておりましてな。南方派遣艦隊の参謀長の椅子が、空いております。メルヴィル元帥を支える、実務の頭脳が要る。——大将、貴官に差し上げよう。帝国の海の、総仕上げの椅子だ」
ラ=マリニエールは、すぐには答えなかった。
彼は海図の上の、自分で書き込んだ数字の列を、しばらく見下ろしていた。それから顔を上げた。その目は怒ってもいなければ、諂ってもいなかった。ただ、疲れることを最初から諦めた者の、静かな目だった。
「……その椅子にお答えする前に、閣下。一つだけ、申し上げておかねばなりません」
と、提督は言った。声は低くも高くもなく、ただ、まっすぐだった。
「この時期の艦隊派遣は——愚策です」
絨毯の厚い、あらゆる音が死ぬように造られたその部屋で、その一言だけが、砲声のように響いた。




