第20話「空の納屋」
ヴェルメルン村の納屋は、空だった。
麦袋の一つも、芋の一籠もない。家畜小屋には家畜の匂いだけが残り、肝心の中身は一頭もいない。村には老人が数人いるきりで、問い詰めれば、口を揃えてこう言うのである。
「麦は青田のうちに売りましたで。証文もございます」
「若い衆は、北の収穫場に奉公に。ええ賃金だそうで」
「牛は隊商さんに預けてございます。預り証も、ほれ、この通り」
証文。奉公。預り証。すべて紙で、すべて合法で、すべて数ヶ月前の日付だった。
オルツハイムも、同じだった。ケステル渡しも、グラウの丘も。行く先々で、倉は空で、紙だけが揃っていた。
「隠匿だ!」
ジュールは吼えた。
「村ぐるみの隠匿である! 吐かせろ、どこへ隠した!」
だが老人たちは、隠してなどいないのである。売ったのだ。売られたものは、もうそこにない。ないものは、どれだけ吼えても、出てこない。
略奪というのは、つまるところ、そこに物があって初めて成立する商売である。ジュールの帳面の新しい頁は、その日、一行も埋まらなかった。数の書けない帳面を抱えた男が、この戦役でもう一人増えたわけだが、あちらの帳面とこちらの帳面では、書けない理由の品性が、天と地ほども違った。
「……調べろ。誰が買った」
ジュールの声は、低くなっていた。吼えるのをやめた時のこの男が一番危険であることを、部下たちはスロテンで学んだばかりである。
「青田買いの証文の、買い主を辿れ。北の収穫場とやらの、雇い主を辿れ。……この臭いは、知っている臭いだ」
鷹の臭いである。証拠は、ない。証文の買い主はどれも聞いたことのない穀物商で、名義はどれも清潔だった。だが清潔すぎる名義というものは、それ自体が一つの臭いなのだ。
ジュールは知らない。彼がこれから辿ろうとしている糸が、どこまで続いているのかを。そしてその糸のどこか先に、この街の最も深い切り札——名前を三度変える馬車たちの道が繋がっていることを。
糸を辿る指は、無能でも、指である。触れれば、糸は揺れる。
◇
同じ頃、アードラズベルクの北門は、妙な賑わいの中にあった。
南から来た「収穫奉公人」の一団が、また到着したのである。家族連れで、家財道具を荷車に積み、中には鶏籠まで抱えた奉公人たちが。
雇用契約書は全員が持っていた。雇い主の名はそれぞれ違ったが、給金の相場だけが、妙に、きっちり揃っていた。
受け入れの列の先頭には、救護院の白い前掛けが並んでいた。マルタが名簿を片手に、家族の数と子供の熱を確かめて回っている。
列の中の老婆が一人、マルタの袖を掴んで、小さな声で訊いた。
「あの……スロテンから来た人は、この中には」
マルタは、名簿から顔を上げなかった。上げられなかったのである。
「……おられません。あの村の方だけ、どの列にも、おられんのです」
老婆は、それ以上訊かなかった。訊かないことで分かる齢の重ね方を、していたのである。
テオドールは城壁の上からその列を見下ろし、それから、市庁舎の方角を見た。
兄が何かをしたのだ、ということだけは分かった。何をしたのかは、その日の午後、議会が教えてくれることになる。
◇
臨時議会は、開会の槌が鳴る前から荒れていた。
議題は二つ。一つは、スロテン村の惨劇の報。もう一つは、市内に流入し続ける数百人の「奉公人」の正体である。
スロテンの報告は、買付人の帳面の写しが読み上げられた。全焼。処断された者の数、不明。鎖で南へ曳かれた男、およそ四十。荷馬車で売られていった女子供、六台分。
議場は、静まり返り——それから、爆発した。
「帝国の『保護』の正体がこれか!」
「報復すべきだ! 出撃を!」
「守れなかったのか! 我らの軍は何をしていた!」
怒りは、行き場を探して渦を巻き、やがて、一つの席に集まっていった。
商会代表の席である。
「レオンハルト殿に伺いたい」
と、法律家議員が立った。
「市内の奉公人たちの雇用契約、その雇い主を辿ると、いずれも商会の系列に行き着くという噂がある。事実か」
「事実です」
レオンハルトは、立ちもせずに答えた。
「では伺うが——商会は、議会にも総帥府にも諮らず、敵の占領地で数百人を動かす『作戦』を、独断で行っていたことになる! これは商いか? 戦争行為か? 誰の許可を得た!」
「商いです」
レオンハルトは、そこで初めて立ち上がった。
「商会は、南の村々から麦を買いました。相場より二割高で。人手を雇いました。相場より三割高で。家畜を預かりました。手数料は、取っていません。……以上のどこに、議会の許可が要りますか」
「詭弁だ!」
「詭弁です」
あっさりと、レオンハルトは認めた。議場が、一瞬詰まった。
「これがまさに」と、別の議員が続いた。「我々が創設法の審議で恐れた『家』の力ではないのか。議会の知らぬところで、一家が数百人を動かし、村々を動かし——」
「ご懸念は、もっともです」
レオンハルトは、遮らずに、受けた。
「商会は、議会の求めがあれば帳簿を開示します。——公開できるものは、全て」
公開できるものは。その七文字の含みに気づいた者が議場に何人いたか、記録は残っていない。
「一つだけ言っておくと」と、銀行組合の代表が横から口を挟んだ。「二割高で買われた麦は、いま市中の竈で我々が食っておる。三割高で雇われた人手は、明日から壁の補修に入る。……損の出所を探しとるのだが、どうにも見つからん」
「ですが議員殿。詭弁と、村四つ分の命が引き換えになるなら、私は明日も詭弁を弄しますよ。……ヴェルメルンの納屋は空です。オルツハイムも、ケステル渡しも、グラウの丘も。空の納屋は、焼いても燃えるだけで、誰も死なない」
「——ではスロテンは!」
誰かが、叫んだ。
「スロテンはなぜ空でなかった! 貴殿の『商い』は、なぜあの村に間に合わなかった!」
議場が、しんとなった。
一番痛いところだった。そして、答えのないところだった。レオンハルトは、その問いには詭弁を返さなかった。返せる紙を、彼は持っていなかったのである。
「……一日」
と、彼は言った。
「一日、遅かった。それが答えの全てです。私の帳簿には、そう書いてあります。生涯、消さずに置きます」
沈黙を破ったのは、ヨルク翁だった。
老人は杖をつき、ゆっくりと立った。
「四つの村の者が、今夜、うちの街で飯を食っとる」
それだけを、まず言った。
「五つ目に間に合わなんだ者を、四つを救った席から引きずり下ろして、それで六つ目が救えるなら、わしが先頭で引きずり下ろす。……救えんのなら、諸君、怒りの宛名を間違えるな。納屋を空にした者と、村を焼いた者と、どちらがこの怒りの宛名か」
議場の怒りが、ゆっくりと、向きを変えていった。
その日の議会は、二つの決議で閉じた。
一つ。流入した奉公人たちを、難民に準じて受け入れ、市民権取得の途を開くこと。
一つ。スロテン村の惨劇の顛末を、印刷物として大陸中の自由都市・諸邦に頒布すること——徴発票の文面、「対価、帝国の保護」の九文字ごと。
輪転機は、その夜から回り始めた。
印刷所の職人たちは、賃金を三倍払うと言われて断った。金は要らん、と親方は言ったのである。うちの女房の里は、スロテンの二つ隣だ——それだけ言って、袖をまくった。
刷り上がった一枚目の見出しは、飾り文字も何もない、ただの活字だった。
《徴発票ニ曰ク——対価、帝国ノ保護》
九文字が、九発の砲弾より遠くまで飛ぶことになる。もっともそれが分かるのは、まだ先の話である。
「砲では、帝都まで届かない」
決議の後、レオンハルトは弟にだけ、そう言った。
「だが紙は届く。……奪う側が一番恐れるのはな、テオドール。奪り返されることじゃない。書き残されることだ」
◇
その夜、テオドールは自分の帳簿を開いた。
借方に、書いた。——スロテン村。
数字は、書けなかった。処断された者の数を、誰も知らないからである。数字のない借方が、頁の上で、どの数字よりも重かった。
その下に、テオドールは二行分の余白を空けた。
鎖で南へ曳かれた、およそ四十。荷馬車で売られた、六台分。——いつか名前ごと書き足すための、余白である。
余白は、取り返すと決めた者の書き方だった。
◇
同じ夜。帝国軍本陣。
ダルナン少佐は、幕舎の外に立っていた。
中には、スロテンの詳報を携えた伝令が入っている。買付人の帳面より三日遅れの、帝国自身の監察報告——もはや隠しようのなくなった煙の、正式な報せである。
幕舎の中は、長いこと、静かだった。
静かすぎた。
ダルナンは、この上官の怒り方を知っているつもりでいた。声を低くする。言葉を短くする。相手の逃げ道を、一本ずつ、静かに塞いでいく——それがジャン=リシュアンの怒りというものであり、だからこそ幕僚たちは、あの静かな声を何よりも恐れてきたのである。
だが今夜の静けさは、種類が違った。嵐の前の無音というものを、ダルナンは生まれて初めて、音として聞いた気がした。
やがて、卓が引っくり返る音がした。地図の筒が転がる音、硝子の割れる音。ダルナンは直立したまま、目だけを閉じた。この戦役で初めて聞く種類の音だった。
そして、幕布越しに、あの冷静な男の声が——初めて、怒声として、夜の陣中に響き渡った。
「——ジュール・ド・レオニエを、直ちにこれへ!!」




