抉
おこづかいも、すべてその欲求を満たすために使った。
近所のスーパーで、頻繁に、生魚だけを購入する小学生(今は中学生、だけれど)を、レジを打つ人はどんな目で見ていたか何て、私にはどうでも良いことだった。大切なのは目を抉り出すことだけだった。
そんな私でも、性癖がばれなければ、ただの中学生に見えるようで。
友達は少なからずいつでもいたし、むしろ多い方だと自負してもいた。そしてそれは現在でもそうだ。けれど絶対、たとえ裸を見せあえる仲だったたとしても、目が好きなことは言わなかった。そしてこれからも言わない。
それは
私にとって抑えようのないこの感覚は、世間一般で言うと「変わっている」ことだと、知っていたからだった。
最初に気づいたのは、小学3年生ごろだっただろうか。
私がはじめて、理想とする目に出会えたときだった。その頃の私はまだ、目を本当に抉り出さなくても、想像と、模造品(そのときは、目を象った柔らかいボールに欲求をぶつけていた)をさわるだけで、なんとか自分を律することができた。
(自分を律していたのは、一度本当に抉り出そうとしてしまって、相手の子が泣いてしまい、親に怒られて、いけないことだとなんとなく思っていたからだった。)
魚の目を抉り出すことも、しなくてよかった。
けれど、その目を見てしまったら、抉り出す、以外のどの選択肢も、まるで選べないかのように(まるで最初からなかったみたいに)抉り出すことを強要された。
そして抉るようになった。(人は傷つけるとおこられるから、代わりに魚の目を。)
そうしておかしいと気づいた。
日を増すごとに、きれいな目が恐怖に毒されていったから。(私は友達を見るとき、そんなに恐ろしい顔をしていたのだろうか)
親に、お前はおかしいのだと、言われてしまった(今となっては、気づかれてしまった、の方が的を射ている気がしてならない)から。
目の前に魚を横たえる。
微動だにしない魚。
見つめ会う。
今日の魚は、目が小さかった。
不満だった。(人間の目と、あまりにも違いすぎて)
「・・・・ちゃん?」
ふとワレニカエル。
ここはどこだろうか。
ここは自分のうちの台所ではなかった。
意識を魚から引き離された瞬間から、回りの状況を理解することができるようになってきた。
そうだ、ここは学校だ。
4時間目の家庭科の時間。
魚の煮付けを作ることが、ここにいる40人弱のあらかたの目標であるはずだ。
もう一度魚に目を戻したら、またトリップしてしまうことは百も承知だったので、魚の頭をそっと手で隠し、エラの真上に包丁を突き立て一気に両断した。目を抉るほどではないにせよ、少しだけ快感が生まれる。
「大丈夫?」
先程名前を呼んだ(らしい、と、推測する)友達が、顔を覗き込み私の心配をしてくれた。大丈夫だよ、頭ついてる魚をさばくの初めてだから動揺しちゃって、と嘘をついた。大丈夫でもなければ、魚をさばくのも(頭を切り落とすのも)初めてではなかった。動揺したのは本当だった。
無事に魚をさばき終え、料理は完成した。
みんなは美味しそうに魚の切り身をつついていたけれど、私には三角コーナーにある魚の頭のことしか考えられなかった。
(本当は友逹の目のことを考えないように、ごまかしていた、のだと思う)
こうして、苦労を抱えつつも、なんとか一日を乗りきり、スーパーで魚を買って、家で抉って(あまりおこづかいがないのでそんなには抉れない)満足したつもりになるのが、変わらない日常だった。
本物の目はいつか抉ってみたいけれど、特に不満もなければ、満足もしていない日常だった。
そんな繰り返しの日常を突然狂わせたのは、私の犯罪行為、ではなくて、彼だった。




