第十九話「二人で手紙を書きました」
婚約を、世に告げねばならなかった。
両家へ。社交界へ。そして、北方の領地の民へ。アドラー辺境伯が伴侶を得る——それは、一通の正式な報せをもって、公にされる。本来なら、辺境伯家の書記が、型どおりの文面を整えるところだ。
けれど、マクシミリアンは、こう言った。
「これは、自分たちで書く」
だから今夜、私たちは、店にいた。看板のない、町外れの代筆屋『ローズ』。二本のランプを灯し、机を挟んで、向かい合っている。
「まず、私が下書きをする」
彼は、羽根ペンを取った。あのときより、迷いがない。さらさらと、几帳面な字が、便箋を埋めていく。やがて、彼はそれを、こちらへ滑らせた。
覗き込む。
『アドラー辺境伯マクシミリアン、ローゼンベルク伯爵令嬢レナータと婚約せり。時節を見て、式を執り行う。以上』
……以上。
「これは」三秒、数えた。「報告書、ですか」
「報告だ」
「いえ、その、——お式の招待状にしては、あまりにも」
「無駄がない」彼は、真顔で言った。「過不足ない」
間違ってはいない。間違ってはいないのだ。けれど、これを受け取った人々は、きっと、辺境伯が部下に出した命令書だと思う。
「少し、お預かりします」
私は、新しい便箋を引き寄せた。代筆屋の血が、騒いだ。これは私の領分だ。三年間、何百通もの婚礼の報せを書いてきた。格調高く、麗しく、両家の誉れとなる一通を——。
ペンが、滑り出す。
『天もこれを祝し給うか、北方に名高きアドラー家の若き当主、このたび比類なき佳人を娶らんとす。両家の弥栄、永久に絶ゆることなく、その契りは星霜を経てなお——』
「待て」
彼の手が、私のペンの上に、そっと置かれた。
「それは、君の文ではない」
顔を上げる。深い青の瞳が、まっすぐに、私を見ていた。
「それは——ローズの文だ」
ペンが、止まった。
言われて、はじめて、気づいた。今、私が書いていたのは、他人のための文だった。依頼主を、いっとう美しく見せるための、借り物の言葉。誰のものでもある、だから、誰のものでもない、きれいな定型。
マクシミリアンが求めているのは、それではなかった。半年前から、ずっと。
「……癖が、出ました」
頬が、熱くなる。彼の口元が、わずかに緩んだ。
「君の言葉で、いい」彼は、ペンから手を離した。「飾らなくて、いい」
私は、便箋を、もう一枚、新しくした。今度は、ゆっくりと。
「では、——一文ずつ、書きませんか。あなたと、私で」
「一文ずつ?」
「あなたが、本当に思っていることを、一つ。私が、一つ。削るところは、削り合って」
彼は、少し考えて、頷いた。それから、ペンを取り、書いた。
『つつがなく、領地を治めていく』
彼らしい、と思った。為政者の願い。けれど、報せにしては、まだ硬い。
「ここに、一つ、足してもいいですか」
「足せ」
私は、その隣に書いた。『——その傍らに、笑いの絶えぬ家を築きたく』。
彼が、それを読んだ。長い指が、文字の上を、一度なぞる。
「……家、か」
「いけませんか」
「いや」彼は、首を振った。「足してくれ」
次は、彼の番だった。彼は、しばらくペンを宙に浮かせ、それから、ぽつりと書いた。
『彼女の書くものを、これからも、読んでいたい』
心臓が、跳ねた。
公の報告に、こんな一文を、入れる人がいるだろうか。社交界の誰もが眉をひそめる。けれど——だからこそ、それは、紛れもなく、彼自身の言葉だった。借り物では、決してない。
「……それは」声が、掠れた。「削った方が、いいかもしれません」
「なぜ」
「人に、見られます」
「構わない」即答だった。「これは、二人で書く文だ。君が消すなら、消せ」
私は、消せなかった。
代わりに、その下に、自分の一文を書き足した。何を書いたかは——書いてから、しばらく、手で隠した。彼が、それを、どうしても見ようとして、私が机に伏せて、二人で、子どものように、便箋を取り合った。
ランプの油が、半分まで減っていた。
公の体裁の、いちばん内側。型どおりの報告文の、行と行の隙間に、二人だけの願いが、一つ、また一つと、満ちていく。削っては足し、足しては削り。素っ気ない彼と、つい盛ってしまう私の、ちょうど真ん中に、文章の温度が、落ち着いていく。
気づけば、窓の外は、すっかり夜だった。
「……終わりませんね」
「終わらないな」
彼は、けれど、急ぐ様子もなかった。むしろ、この時間が、惜しいようにすら見えた。
机の上には、書きかけの一通。まだ、宛名も、結びもない。けれど、もう、辺境伯の命令書では、なかった。
「続きは、明日にしますか」
「いや」彼は、新しいランプに、火を移した。「もう少し、書いていたい」
小さな炎が、二人の手元を、また明るく照らす。
私たちは、もう一度、ペンを取った。




