第二十話「これが私たちの一通目です」
末尾の一行を、二人で、ずっと考えていた。
報告の本文は、もう、ほとんど書き上がっていた。彼が事実を置き、私が温度を足し、行き過ぎたところを彼が削る。素っ気ない彼と、つい盛ってしまう私の、ちょうど真ん中。三日かけて、何度も書き直した一通は、辺境伯の命令書でも、ローズの名で売るような、飾り立てた美文でもない、どこにもない文章になっていた。
残るは、結びの一行だけだった。
「ここは、何と書く」彼が、ペンを置いた。「報告なら、『以上』で済む」
「……済ませたく、ないですね」
「私もだ」
即答だった。彼の口元が、わずかに緩む。
この一行は、人に読まれる。両家に、社交界に、北方の民に。だからこそ、ここだけは——誰にも分からなくていい。私たち二人にだけ、通じればいい。そういう一行を、最後に、置きたかった。
「実は」私は、便箋を一枚、引き寄せた。「もう、決めているんです。何を書くか」
「いつから」
「この前の夜。あなたと、取り合いになったとき」
彼の眉が、動いた。あの夜、私が手で伏せて、隠した一文。彼がどうしても見ようとして、二人で子どものように便箋を奪い合った、あの一行。
「あれは、これに使うつもりでした」私は、ペンを取った。
「見ても、いいですか」
「……いいも何も」彼は、少し、不服そうだった。「あの夜から、ずっと、気になっていた」
私は、笑って、ペンをインクに浸した。
手紙のいちばん下に、報告の体裁を、すっかり脱いで——私だけの言葉で、ゆっくりと、書いた。
『——あなたが頁をめくる音を、私はこの先も、数えています』
彼が、それを読んだ。
深い青の瞳が、文字の上を、一度、なぞる。それから、ゆっくりと、私を見た。表情の乏しいこの人の、奥の奥が、たしかに、揺れていた。
「……君は」掠れた声だった。「またそれを、書くのか」
「ええ」三秒、数えた。「あのとき、伝えました。あなたが頁をめくる、その音を、私は数えていた、と。——あれは、過去の話でした」
ペンの先で、最後の一文を、そっと指す。
「これは、これからの話です」
彼は、しばらく、何も言わなかった。それから、自分のペンを取った。私の一行の、すぐ隣に、几帳面な字で、短く書き足す。
『私も、数える』
たった、それだけ。
けれど、半年分の沈黙の答えが、その五文字に、全部あった。読む人にも、聞く人にも。彼が読み、私がその音を聞く。私が書き、彼がその音を数える。どちらも、一人では足りなかった。
手紙が、完成した。
机の上の一通を、私たちは、しばらく、二人で見下ろしていた。公の報告の、いちばん内側。型どおりの文面の、最後の二行だけが、誰にも解けない暗号のように、二人だけの願いで満ちていた。
「これが」彼が、ぽつりと言った。「一通目だな」
——一通目。
私は、その言葉を、手の中で確かめた。
思えば、すべては、奇妙な一通から始まった。半年前に読んだ手紙の、書き手を探したい。その書き手を見つけるための、手紙を書いてほしい——。私は、自分を探すための手紙を、依頼された。代筆屋なのに、宛先が、自分だった。
あのときは、まだ、知らなかった。あれが、私を、この人のもとへ連れてくるための、一通だったなんて。
自分を探す手紙は、もう、要らない。私は、ここにいる。探していた人は、目の前にいて、私の書く音を、数えている。
婚約は、ほどなく、公にされた。北方の辺境伯が、王都の没落貴族の娘を娶る——ひとしきり、社交界を賑わせたらしい。けれど、私たちの作った末尾の二行に気づいた者は、誰もいなかった。それでいい。あれは、私たちのものだ。
そして、私は、店を畳んだ。
最後の日、私は、三年分の控えを綴じた帳面が詰まった引き出しを、開けた。あの朝、どうしても閉まらなかった引き出し。他人の恋を、何百通も、言葉にしてきた記録。
その全部を、私は、ミラに渡した。
「いいんですか」ミラが、帳面を受け取る。「お姉様の、宝物でしょう」
「あなたなら、活かせる」私は、空になった引き出しを、そっと閉めた。今度は、ちゃんと、閉まった。「私は、書く人。あなたは、見る人。——でしょう?」
ミラは、少しだけ、得意げに笑った。
看板は、下ろさなかった。『ローズ』の名前は、そのまま残した。ただ、代筆屋ではなく、恋の相談所として。言葉を貸す店が、心を見つける店になった。町外れの小さな灯は、消えずに、ミラの手で、灯り続ける。
店を出るとき、夜風が、看板を、かたんと揺らした。
いつもの音だった。けれど、もう、私がそれを聞くのは、これが最後だった。次にこの音を聞くのは、ミラだ。
屋敷へ戻る道、私は、考えていた。
両親は、婚約のあいだに、四百通の手紙を交わしたという。私は、その全部を読んで育った。言葉のリズムを、温度を、行間の沈黙を——全部、あの四百通から、もらった。私の言葉の源は、ずっと、他人の手紙だった。両親の。依頼主の。
でも、これからは、違う。
私が読むのも、書くのも、もう、借り物ではない。私と、あの人の、二人だけの手紙。一通目は、もう書いた。二通目を、三通目を、これから、ゆっくりと。両親と同じ、四百通を——いや、それより、ずっと多く。
他人の恋は、書かなければ忘れる。
でも、あの人のことは、書かなくても、忘れない。
だから、これからは、忘れないために書くのではなく、ただ、伝えたいから、書く。隣で、彼が頁をめくる音を、数えながら。
代筆屋の私は、いつのまにか、いなくなっていた。
代わりに、ここにいるのは——二人で、書く人。
手の中には、もう、控えの引き出しの重みは、なかった。
代わりに、あの人の手の、たしかな温もりがあった。
これが、私たちの、一通目です。
次の一通を、書きにいきましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「代筆屋の私が、なぜか自分を探す手紙を依頼されているのですが」、これにて完結です。
他人の恋なら天才的に書けるのに、自分の恋は壊滅的。そんなレナータが、借り物ではない、自分だけの一言を口にするまで。その道のりを、最後まで見届けていただけたなら、これ以上に嬉しいことはありません。
彼女が数えた指先の音が、あなたの胸にも少し残っていたら、と願っています。
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本当に、ありがとうございました。またどこかの物語で、お会いできますように。




