第十八話「妹が店を継ぐと言いました」
その晩、私は、ミラに話すと決めていた。
夕食のあと、屋敷の小さな居間で。両親が遺したこの部屋も、三年のあいだに、ずいぶん物が減った。売れるものから順に手放してきた。残ったのは、座面の沈んだ長椅子と、両親が使っていた文机が一つ。火の入らない暖炉の前で、ミラは繕い物の手を動かしていた。
まず、嫁ぐことを。次に、店のことを。順を追って話そう——そう決めていたのに、いざとなると、舌が重かった。
「ミラ」
「はい」
顔も上げず、針を運びながら、妹が答える。
「私、——お話が、あるの」
「辺境伯様のことですか。それとも、お店のことですか」
針が、止まった。ミラが、顔を上げる。落ち着いた、まっすぐな目だった。
……先を、越された。
「両方よ」観念して、私は座り直した。「あの方のところへ行けば、領地へ移ることになる。そうなれば、この屋敷も、店も。……あなたを、一人にしてしまう」
ずっと、これが言えなかった。両親が逝ってから三年、私はこの子を守るために生きてきた。長女として。その私が、この子を置いて、自分だけ幸せになろうとしている。
「店は、畳むしかないと思っているの。ごめんなさい。私の都合で、何もかも——」
「お姉様」
ミラが、繕い物を膝に置いた。
「お姉様は、私を、子どもだと思いすぎです」
穏やかな声だった。けれど、芯があった。
「畳まなくて、いいです。あのお店は、私が継ぎます」
「……継ぐ? でも、あなたは、代筆なんて」
「ええ。私は、書けません」あっさりと、ミラは認めた。「お姉様みたいに、人に言葉を貸すことは、私にはできない。——だから、別のお店にします」
針箱の蓋を、ことりと閉じる。
「恋の、相談所に」
私は、妹の顔を見た。
「お姉様は、人に言葉を貸す人。私は、人の心を、見る人です」ミラは、少しだけ笑った。「書く代わりに、見て、言い当てる。それなら、私にもできます」
「……どうして、そう思うの」
「証拠が、ありますから」
ミラは、文机の上に目をやった。そこには、籠に盛られた林檎が、いくつか。
「お姉様。去年の私の誕生日に、市場で林檎を買ってきてくださいましたね」
——林檎。
「あの日、帰ってきたお姉様、様子が、変でした」ミラの目が、私を見据える。「林檎の包みを抱えたまま、しばらく、ぼんやりしていた。それから——辺境伯様の話をするときだけ、声が、半音、高くなるようになった」
心臓が、小さく跳ねた。
「市場で、何かあったんでしょう。あの方と」三秒、待って、ミラは続けた。「お姉様の恋に、一番最初に気づいたのは、私です。お姉様より、ずっと、先に」
返す言葉が、なかった。図星だった。あの日、市場で、林檎を一個ずつ確かめるあの人を見つけた。あれが、始まりだった。私自身が、それを恋と呼ぶより、ずっと前に——この子は、林檎の包みの抱え方一つで、見抜いていた。
「だから、できます」ミラは、もう笑っていなかった。職人の顔だった。「書けなくても、見えるんです。誰が、誰を、どんなふうに想っているか。お姉様が言葉を渡してきたその手前で、私は、心を見つけられる」
私は、長椅子の上で、両手を握り合わせた。
守らなければ、と思っていた。両親の代わりに、この子の盾にならなければ、と。けれど——いつのまにか、ミラは、自分の足で立っていた。私が背負っているつもりだった荷物は、とっくに、半分は、この子が自分で持っていた。
長女の肩から、何かが、そっと下りていく感触があった。
「……お姉様は、書く人」もう一度、ミラが言った。「私は、見る人。役割が、違うだけです」
「ミラ」声が、掠れた。「ありがとう」
「お礼は、まだ早いです」
ミラは、林檎を一つ手に取った。袖で、つるりと磨く。それから、こちらへ差し出した。
「お姉様」
受け取ろうと伸ばした私の手を、ミラの目が、すっと見た。あの、心を見つける目で。
「お姉様は、これから、何を書くんですか」
息が、詰まった。
「代筆屋は、やめる。自分宛ての手紙も、もう、要らない」ミラは、林檎を私の手に乗せた。「——でも、お姉様。書かない人には、ならないでしょう」
言い当てられたのではなかった。問われたのだ。答えは、まだ、私の中で名前を持っていない。けれど、あの晩、彼の隣で一語を拾ったときの、あのペンの軽さが、指先に、ふいに蘇った。
「……分からない」私は、林檎を、両手で包んだ。「でも、たぶん、もう、すぐ近くにあるの。手が届くところに」
「でしょうね」
ミラは、満足げに頷いて、繕い物に戻った。
手の中の林檎は、ひんやりと重かった。その重みを、私は、しばらく確かめていた。




