第十七話「彼が手紙に詰まりました」
翌日の昼下がり、マクシミリアンは、また店に来た。
けれど、今日は様子が違った。いつもの椅子に腰を下ろすなり、彼は懐から一枚の便箋を取り出し、机に広げた。それから、私のペン立てに目をやる。
「借りても、構わないか」
「……どうぞ」
彼は、私の羽根ペンを一本手に取り、インク壺に浸した。慣れない手つきではない。けれど、どこか、ためらいがあった。
昨日の言葉を、思い出す。私も、一つ、書かねばならないものがある。これは、自分で書く——。
あれを、書くつもりなのだ。この店で。
私は、邪魔をしないよう、自分の仕事に戻るふりをした。けれど、視界の端で、彼のペンの動きを追ってしまう。
彼は、一行書いた。それきり、止まった。
長い沈黙。羽根の先から、インクが一滴、便箋の隅に落ちた。彼は、それを気にする様子もなく、ただ、書いた一行を、じっと見ていた。
三秒。五秒。十秒。
「……あの」たまらず、声をかけた。「進みませんか」
「進まない」即答だった。
彼は、便箋をこちらへ滑らせた。見てくれ、ということらしい。覗き込むと、几帳面な、けれど飾り気のない字で、たった一行。
『婚約した。追って戻る』
それだけだった。
「これは、どなたへ?」
「老臣だ。私が幼い頃から、領地を預かってきた」彼は、ペンを置いた。「報告せねばならん。だが、これで、十分だろう」
十分ではない、と思った。
私は、長く代筆をしてきた。だから、わかる。この一行を受け取った老臣は、きっと、安心しない。婚約した——相手は、どこの誰か。なぜ急に。主は、無理をしていないか。短い報告ほど、受け取る側は行間を埋めようとして、勝手に不安を膨らませる。
けれど、それを言っていいものか、迷った。これは、彼が自分で書くと決めたものだ。私が口を出せば、また代筆になってしまう。
「……何だ」彼が、私を見た。「言いたいことが、あるなら言え」
見抜かれていた。私は、観念して口を開いた。
「ご家臣は、心配されると思います。この一行だけでは」
「事実だ。婚約した。戻る。それ以上、何がいる」
「事実は、足りています」三秒、数える。「でも、——お気持ちが、何も書いてありません」
彼の指が、ペンの上で、わずかに止まった。
「あなたは今、嬉しいんでしょう」
言ってしまってから、はっとした。出すぎたことを。けれど、彼は、否定しなかった。ただ、深い青の瞳が、便箋の上の一行に落ちる。その目元が、ほんの少し、所在なげに揺れた。——嘘や、ごまかしのときの、あの動き。けれど今度は、ごまかすべきものが、嘘ではなかった。本当の気持ちの方を、彼は、書けずにいる。
「書けない」彼は、低く言った。「こういうものは、昔から、どうにも」
だろうな、と思った。この人は、行動で示す人だ。林檎を一個ずつ確かめ、毎日通い、待ち続けた。言葉ではなく。
私は、もう一本のペンを取った。そして、彼の便箋の、その一行の隣に——勝手に書くのではなく、彼に見えるように、ゆっくりと、口にした。
「『久しく、こんなに穏やかな心地ではなかった』。……たとえば、こんな一言を、添えては」
彼が、顔を上げた。
「それは」
「あなたの、お言葉です。私はただ、あなたが書けずにいるものを、拾っただけ」
しばらく、彼は黙っていた。それから、私のペンではなく、自分の羽根ペンを取り直した。インクを浸し、私の口にした一言を、自分の手で、便箋に書き加えていく。一字、一字、確かめるように。
書き終えて、彼は、その一行を見下ろした。口元が、緩んでいた。
「……温度が、ついた」
ぽつりと、彼は言った。
私は、何も言えなかった。
今、私がしたことは、代筆ではない。彼の代わりに書いたのではない。彼が書いた。私は、隣で、言葉を一つ拾っただけ。他人の恋文を書くのとも、自分宛ての手紙を書くのとも、違った。
二人で、一通を書いた。
そんな書き方が、この世にあるなんて、知らなかった。
名前の付かない、初めての感触が、指先に残っていた。インクの染みた、いつもの指。けれど、握っていたペンの軽さが、いつもと、まるで違った。
彼が帰ったあと、私は、しばらく、その一本のペンを置けずにいた。
——これは、何だろう。
窓の外で、看板の「ローズ」が、また、かたんと鳴った。




