第十六話「代筆屋をどうしようと思っています」
あの夜から、三日が過ぎた。
朝の道は、いつもと同じはずだった。貴族街の屋敷を出て、町外れの裏通りまで、歩いて四十分。地味な町娘の格好に着替え、髪を一本に結う。三年間、毎朝繰り返してきた道のり。
なのに、世界が、少しだけ違って見えた。
パン屋の煙の匂いも、井戸端の話し声も、足元の石畳の凹凸も、何もかもが、やけに鮮やかに目に映る。指先には、まだ、あの夜の感触が残っていた。インクの染みた私の手を、静かに包み返した、あの大きな手のひらの重み。
——いけない。
歩きながら、ひとりでに口元が緩みかけて、私は慌てて引き締めた。往来で締まりのない顔をしていては、せっかくの変装も台無しだ。
看板のない店の鍵を開け、いつものように、机の引き出しを引いた。
三年分の代筆控えが、ぎっしりと詰まっている。革表紙の帳面が、年代順に並ぶ。一番手前が、今年の分。一番奥が、始めたばかりの頃の、まだ字の硬い控え。依頼主の名は伏せ、その人がどんな恋をして、どんな言葉を選んだかだけを、私は記録してきた。
今日も、一件、依頼が入っている。仕立て屋の娘が、想い人へ送る初めての手紙を——。
そこまで考えて、ふと、手が止まった。
あと何度、この引き出しを開けるのだろう。
考えないようにしていた。けれど、考えないわけには、いかなかった。
マクシミリアン・フォン・アドラー。北方を治める、辺境伯。あの人の隣に立つということは、いずれ、領地へ行くということだ。そして——辺境伯夫人が、町外れで看板もない代筆屋を営むなど、できるはずがない。
まず、屋敷を離れる。次に、この町を離れる。そうなれば、店は。
頭が、勝手に順序を組み立てていく。理屈は、簡単だった。答えは、もう出ている。畳むしかない。
なのに、手が、引き出しを閉じられなかった。
私は、家計のためにこの仕事を始めた。けれど、いつの間にか、それだけではなくなっていた。商家の三男坊の不器用な恋も、未亡人が亡き夫に捧げる詩も、全部、私が言葉を貸した。他人の恋に本気で泣いて、それでも最後には、最高の一通を書き上げる。それが、私だった。
他人の言葉を貸す人。
その看板を下ろしたら、私は、これから、何を書いて生きるのだろう。
扉が、軽く叩かれた。
顔を上げると、見慣れた濃い灰色の旅装が、戸口に立っていた。町に降りるときの、地味な格好。けれど、もう、依頼主の顔ではなかった。
「邪魔をする」
「……いらっしゃいませ」
つい、商売人の挨拶が口をついて出る。彼の口元が、わずかに緩んだ。
彼は、机の上の——開いたままの引き出しに、目を留めた。
「片付けものか」
「いえ」声が、少しだけ高くなった。「その、考えごとを、していて」
彼は、何も言わず、いつもの椅子に腰を下ろした。問い詰めない。私が、自分から語るのを待つ。この三日で、その待ち方は、依頼主だった頃と何ひとつ変わっていないと知った。
「この店を、どうしようかと、思っているんです」
言葉にすると、現実が、急に重みを増した。
「あなたのところへ行けば、もう、続けられません。辺境伯夫人が、代筆屋だなんて」三秒、数える。「……おかしいですよね」
彼は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「惜しいとは、思う」
「え——」
「君の書く文を、惜しいと思う。それだけだ」
決めるのは私だと、彼は言外に告げていた。畳めとも、続けろとも言わない。ただ、私の言葉を惜しむ。それが、誰よりも誠実な励ましなのだと、分かってしまった。
彼は、いつものように甘いミルクティーを一杯だけ飲んで、立ち上がった。
「私も、一つ、書かねばならないものがある」
「書く……?」
代筆を頼まれるのか、と一瞬思った。けれど、彼は首を横に振った。
「いや。これは、自分で書く」
珍しく、言葉を濁した。深い青の瞳が、わずかに、戸口の外へ逸れる。何かを言いかけて、結局、言わないまま、彼は帰っていった。
残された私は、開いたままの引き出しと、彼が残していった言葉を、交互に見ていた。
あの人が、自分で書かなければならないもの。
——何だろう。
引き出しは、まだ、閉じられないままだった。




