第十五話「確かめたいこと」
彼は、しばらく黙っていた。
私が泣きやむのを待ってから、ようやく口を開く。けれど、出てきたのは、答えではなく、問いだった。
「一つだけ、確かめたい」
深い青の瞳が、まっすぐに私を見る。いつもの平坦な声が、少しだけ低くなった。
「あの手紙に書かれていた感情を——君自身は、持っているのか」
——息が、止まった。
わかっていた。きっと、それを訊かれる。彼が半年も探していたのは、上手な文章ではない。その奥にある、本物の感情の在処だ。
答えなければ。なのに、いつもの癖で、頭が勝手に順序を組み立て始める。まず、彼の問いの意図は——次に、私が返すべき言葉は——。
違う。
今は、そうじゃない。
他人の恋文なら、いくらでも書ける。けれど、それは全部、誰かのための言葉だった。借りものの、きれいな言葉。今、目の前の人に渡すべきものは、机の上のどの控えにも、書いていない。
私は、控えを閉じた。ペンも、手紙も、何も手にしないまま、彼を見た。
書かずに伝えるのは、生まれて初めてだった。
「あなたが、本を読むとき」声が、震えた。それでも、続けた。「ページをめくる、その指先の音を、私、数えていました。一枚、二枚って。……仕事の手を止めて、聞いていたんです。気づかないふりを、しながら」
彼の眉が、わずかに動いた。
「他人の恋は、書かなければ忘れます。書いて、紙に残して、それでようやく覚えていられる。——でも」
一度、言葉を切る。喉の奥が、熱い。
「あなたのことは、書かなくても、忘れられないんです」
言い切った。
飾りも、引用も、何もない、私だけの言葉で。
彼は、目を見開いていた。表情の乏しいこの人の、初めて見る顔だった。それから、ゆっくりと、片手で目元を覆う。指の隙間から、ランプの灯が、小さく光るものを照らした。
「……君は」掠れた声だった。「ずるいな。私の台詞を、先に言う」
「え——?」
「私も、数えていた」彼は、手を下ろした。目元が、まだ濡れている。「君の指が、紙をめくる音を。インク壺に、羽根を浸す音を。この店に通った理由は、依頼でも、書き手探しでもない。——ただ、それを聞いていたかった」
半年分の沈黙の意味が、その一言で、すべてほどけていく。
毎日の来店も。退屈ではない、の一言も。茶を飲み、本をめくりながら、この人もずっと、私の手の音を数えていた。お互いに、気づかないふりをして。
「会いたかったのは、手紙の書き手じゃない」彼は、まっすぐに言った。「最初から、君だった」
視界が、また滲んだ。けれど今度は、拭わなかった。
私は、机の上に置かれた彼の手に、自分の手を、そっと重ねた。指先は、もう震えていなかった。インクの染みた、地味な指。それでも、生まれて初めて、この手で、伝えたいものを伝えられた気がした。
彼の手が、私の手を、静かに包み返す。
手の中の重みは、もう、控えの引き出しの中にはなかった。ここに、あった。
窓の外で、夜風が、看板の「ローズ」の文字を、かたんと揺らした。
明日からは、何を書こう。
他人の恋でも、自分宛ての手紙でもない、新しい一通を——きっと、この人と。




