第十三話「依頼が最後の一通になりました」
その朝、私は引き出しの鍵を、いつもより強く握っていた。
昨夜、ミラに背を押された。今日こそ言う。彼が来たら、三年分の控えを開いて、半年前のページを見せて——書き手は、私です、と。頭の中で、もう何度も練習した。まず控えを開く。次に、該当のページを示す。そして、できるだけ落ち着いた声で、告げる。
順序は、完璧だった。完璧なのに、指先はもう冷たい。
昼を過ぎて、扉の鈴が鳴った。
いつもの濃い灰色の旅装。いつものように静かに入ってきて、いつもの席につく——はずだった。だが今日の彼は、茶も頼まず、本も開かず、ただ私の前に立っていた。
「話がある」
短い一言に、練習した順序が、頭から飛んだ。
「次の依頼を、最後にする」
——え。
「三日。それで書き手が見つからなければ、私は領地に戻る」
言葉が、うまく耳に入ってこなかった。最後。三日。領地に戻る。一つ一つは知っている単語なのに、繋げると、意味が掴めない。
「待って」気づけば、声が高くなっていた。「最後って……どうして、急に」
「半年、探した。十分だろう」
彼の声は、いつもと同じ平坦さだった。けれど、深い青の瞳が、わずかに私を見据えていた。いつもより、ほんの少しだけ、長く。
頭の中の順序が、音を立てて崩れていく。
おかしい。私が怖がっていたのは、書き手だと知られることだったはずだ。正体を明かせば代筆業ができなくなる。がっかりされる。想像と違うと、幻滅される——そう、ずっと、それが怖かった。
なのに今、私の頭を占めているのは、そのどれでもなかった。
彼が、いなくなる。
北の領地に戻って、もう二度と、この店の扉を開けない。茶も頼まず、本も読まず、私が文字を書くのを、見ることも、ない。
——それが、嫌だ。
書き手だからとか、依頼だからとか、そんなことは、どうでもよかった。ただ、彼に、いなくなってほしくない。
初めて、自分の気持ちの大きさが、はっきりと形を持った。引き出しの中の控えよりも、手の中の重みよりも、ずっと重いもの。
「……三日、ですね」
ようやく出たのは、それだけだった。書き手は私だと、今ここで言えば、彼は留まるかもしれない。わかっている。わかっているのに、別の何かが喉につかえて、言葉にならない。
彼は、小さく頷いた。
「待っている」
その一言が、依頼の話なのか、それとも——考えかけて、やめた。考えるのが、怖かった。
彼が去ったあと、私は冷めた茶のカップを、両手で包んだ。
三日。
指先は、もう震えてさえいなかった。ただ、静かに、冷たかった。




