第十話 「彼の話を聞きました」
その夜、店に来たマクシミリアンは、いつもの椅子ではなくレナータの机の前に座った。
「話す」と彼は言った。
レナータはペンを置いた。聞く姿勢を取った。
「半年前」とマクシミリアンは静かに語り始めた。「私は、ある令嬢から手紙を受け取った。婚約の申し込みだった」
「婚約……」
「家同士の取り決めで、決まりかけていた話だった。だが私は、その令嬢のことを何も知らなかった。手紙には、彼女が私を見たという市場の場面が、行動の描写だけで描かれていた」
レナータの息が、止まりかけた。
——半年前。市場の場面。
あれは。
「私はその手紙を読んで、初めて他人の感情に動かされた」とマクシミリアンは言った。「それまで、私は政務と領地経営のことしか考えてこなかった。誰かを大切に思うことも、誰かに大切に思われることも、よく分からなかった。その手紙は——私の冷えた心に、初めて温度を持ち込んだ」
「……それで、婚約を」
「断った」とマクシミリアンは言った。
レナータの動きが止まった。
「断った、のですか」
「ああ。理由は明らかだった。あの手紙は、その令嬢が書いたものではない。代筆だ。私の心を動かしたのは令嬢ではなく、書き手の方だった。それを知ったうえで令嬢と婚約するのは、双方に対して誠実ではない」
「……」
「だから書き手を探している」とマクシミリアンは言った。「礼を言いたい。それと——」
彼は少し言葉を切った。
「確かめたいことがある」
「何を、ですか」
「あの手紙を書いた人物が、あの手紙の中にいた感情を、本当に持っているのか」
レナータの心臓が、はっきりと鳴った。
「もし持っているなら」とマクシミリアンは続けた。「私はその人物に、もう一度会いたい」
部屋が静かになった。
レナータは、何も言えなかった。
半年前。商人の若い男性。代筆。市場の場面。行動の描写。それを使って書かれた婚約申し込みの手紙。
全部が繋がる。
経路はまだ見えない。でも、あの手紙の書き手は——
間違いなく、自分だ。
言わなければならない。
言えなかった。
「マクシミリアン様」とレナータは絞り出すように言った。「お話、ありがとうございました」
「ああ」
「私も、書き手を見つけるために、全力を尽くします」
「頼む」とマクシミリアンは言った。
彼が帰った後、レナータは机の引き出しから三年分の控えを全部出した。
半年前の控え。書き出しが一致する手紙。備考に書かれた「依頼主の好意、純粋」の文字。
控えを抱きしめた。
書き手は自分だ。マクシミリアンが探している人物は、自分だ。彼が確かめたいと言った「あの感情を本当に持っているか」——その問いに、自分は答えなければならない。
でも今夜は、まだ答えられなかった。
控えを抱えたまま、レナータは机に伏せた。
窓の外で、雨が降り始めていた。




