第52話 側にいてくれて、ありがとう
小高い丘の上、大空の下に立つ白い墓石。この場所に眠るのは、忘れもしない大切な家族。
ミラは墓石に刻まれない名前を、胸の中で読み上げた。
――アイシア・キューイヴル。
墓前に捧げるのは一輪の白い花、そして、銅の指輪。
「イーディスのことは許してあげて。十分反省していたようだから。こんな事を言うと、また、私の意思に干渉するなって怒られてしまうかしら」
ウロボロスの指輪。それは主より貸し与えられる忠義の証。アルケミストの誓いそのもの。
自分に反発するアイシアがどうして手放さなかったのか、ずっと疑問に思っていた。束縛の証を窓から投げ捨て、自由の扉を開くことはいつでもできたはずなのに。不平不満を口にしながら、側にいてくれた。その矛盾は、とても悩ましいものだった。
けれどやっとわかった、本当の気持ちが。
「あなたは選んでいたのね、自分の道を。私は、それに気づいてあげられなかった。立場ばかりを気にして、友人として寄り添うことから逃げていた。救いなんて、求めてはいなかったのね」
東の空から風が吹く。暖かい春の匂いだ。冬はいつまでも続かない、季節の廻りはそれを教えてくれる。
「私ね、好きだ、って言われたの。あの男は勢いで口走ったんだろうけど……好きだから死んでほしくない、一緒に戦ってやるって……あのときは困惑してしまって、自分の感情がよく理解できていなかったけれど、今にして思えば、たぶんね、嬉しかった、とっても、嬉しかった、そう思う」
ミラの頬が緩む。自然と笑顔になる。らしくない、けれども、たまにはいい。
「それで、やっとわかったの、なにを伝えるべきだったのか」
ゆっくりと息を吸う。呼吸を整える。ずっと言えなかったことを。遅すぎるのかもしれない、それでも、言わなくちゃいけないことを、アイシアに伝える。
「アイシア、私は、あなたが大好きだった。側にいてくれて――ありがとう」
よく磨かれた銅が、青空を映していた。
起き抜けにベンバドルはくぐもる声を聞いた。
「ベン……ベン……ベンっ! 行っちゃダメ!」
物置の外から名前を呼ぶ声がする。この快活そうな声はナタリーだ。ようやく呪いも消えて家に帰れるというのに、引き止められているのだろうか?
ベンバドルが扉を開くとドタバタとナタリーが廊下を駆けていって、後ろにはヘレンを引き連れていた。子猫を追いかけている。あの猫と来たらどうにも奔放で、人に懐いたかと思えば、そっぽを向いたりと、とにかく自由らしい。今日はご機嫌斜めということだ。
それはいいのだが。
「なんで俺を呼んでんだ、あいつ。……うおっ」
「名前、らしいわ」
いつの間にか仏頂面のミラがすぐ隣にいた。身体を仰け反らせているベンバドルには目も向けようとしない。
「脅かしやがって……、だからよ、なんでその名前を連呼してんだよ、俺はここだぞ」
ミラは勘が鈍いことを憂いているような目をして、言い直す。
「名付けたらしいわ。あなたが出ていくからって」
ははあん、なるほど。さっきから呼んでるのは猫の名前か。引き留めようってつもりじゃないわけだ。
「それであいつベン、ベンって、なんでだよ。もっと他にいい名があるだろ。例えばディアナとかミラク――」
「それだと被ってしまうじゃない。そんなことより、体調を教えなさい。異変は? 後遺症はない? 気分は?」
ベンバドルはご覧の通りだ、と両手を広げた。ぴんぴんしてる。七日過ぎても、なんとか死なずにすんだ。ミラとも、これで離れられる。
お別れだ。
「むしろいいくらいだぜ、おかげさまでな。そっちは?」
「そうね。どのくらいの家賃を請求しようか頭を悩ませているくらいよ」
「安くしといてくれ。今回は大赤字なんだ」
リビングに回ると、子供たちが勢揃いしていた。ナタリーは無事に子猫……ベンを捕まえたようだ。もっともナタリーには他にも捕まえたい子猫がいたようだが、残念ながらメンツには含まれていない。どこに行ったのやら。
「あいつも素直じゃねえな。ガキ共を守った功労者だってのに、すぐどっか行っちまいやがる。また腹空かせてるんじゃねえだろうな」
「イーディスなら平気よ。あの子は私の妹ですもの、自分の意思で未来を選んでいけるわ」
「また因縁吹っかけてくるかも」
「その時は」ミラは微笑む。自然な、硬さのない顔だ。「何度だって教育してあげるわ、姉としてね」
「そんときは呼んでくれ、どっちが正しいかジャッジしてやる」
へへっ、とベンバドルも冗談めかして笑った。
呼んでくれ、か。ま、アルケミストなんていう連中とは、そのぐらいの距離感でちょうどいいや。
黙って子供たちの様子を眺めていた。やはり悪くないと思える。誰もが笑っていられる場所は、好きになれる場所だ。青臭い? 言っとけ、隣にいる女の方がよっぽど青臭くて、よっぽどイカす奴だからよ。
「お別れね」
「ああ、そうなるな」
「これから、あなたはどうするの?」
「どうもこうも元の生活に戻るさ。悪夢を倒して、ヤバそうなら逃げて、いつかは黒幕ってやつの顔を拝みたい。いるもんならな」
イーディスは、グリムで見つけた資料を参考に悪夢の召喚と懐柔を試みたと話した。しかし結果があれではそれが成功したのか実際には自然発生だったのかわからない、と言い残してどこかに消えてしまった。ミラいわく人為的に発生させるのは可能だろう、ということだが、試してみる気はないらしい。まぁ、当然だろうな、と思う。
「そう……ならまたどこかで会うかもしれないわね」
ミラは一瞬だけベンバドルを見て、すぐに目を逸らした。
「あの……言おうと思っていたことが、あるの」
居心地悪そうに斜め下に視線をやっている。口をどもらせて、なにかこう愛の告白のようにもったいぶって、何度か躊躇してから、早口に言った。
「……生きてこの景色を見られているのは、たぶん、あなたのおかげ、私一人では、どうなっていたか、ええと……その」
頬を赤らめて、ために溜めて、深く息を吸ったかと思うと、なぜか怒ってるような悩ましげな表情になって、最終的に、顔を上げて、笑顔を選んだようだった。
「……ありがとう」
込み上げるものがあるが、そういうのは似合わない。だからベンバドルは拳を作って胸の前に掲げた。ミラは一瞬ぽかんとして、その意味に気づいたようだった。
手の甲に暖かいものが触れた。コツンと合わせると、目が合った。心の中で、また会おうぜ、と言った。それに気づいているのかいないのか、ミラは小さく頷いた。
ナタリーの声がリビングに響く。ロリーナははしたないと叱責している。アランは真面目な顔をして本を読んでいる。ヤンはすみっこでレイフとヘレンの面倒を見ている。厨房からは小刻みにまな板を叩く音が聞こえてくる。
さあ、新しい一日のはじまりだ。




