第51話 生きて、私の隣で
ベンバドル・ブラッドフォードと呼ばれていた、ほんの数分前まで。今は、なんだろうな、形ってものがない。俺は誰だ、ここはどこだ、なにがあった。
なんて、本当はわかってるさ。俺は死ぬんだな。いや、もう死んだのか。馬鹿げてるぜ、あんな女の言いなりになって、戦って、舞い上がって、腹にでっけえ大穴開けて、挙げ句野垂れ死にだ。
生ぬるい水に沈んでいる。目も鼻も口もない、でこぼこした形の悪い球体。ほんの少しずつ、底に向かって落ちていく。てっぺんから降り注ぐ光はあまりにも遠く、身体がもうないからもがくことすら叶わない。
ふと、水面に影が見えた。灰髪の女が、手を伸ばしている。服の袖が破れ、腕の皮が剥がれ、骨だけになって、それも溶けてしまい、最後には手の形をした赤い光だけが残った。
「そんなところでなにをしてるのっ、死んでいいなんて許した覚えはない、戻りなさい」
淡い赤が拡大していく。海の黒さも、天の輝きも、一色に塗りつぶされる。内側に直接響く声、必死でみっともない、女の声。何様のつもりだ、生き死にくらい勝手にさせろってんだ。
――馬鹿野郎、俺は悲劇のヒーローになったんだよ、あとはそっちで片を付けろ。
「許さない、そんなことは絶対に許さない。人に生きろと言ったあなたが、勝手にいなくなるなんて、私は認めない」
真っ赤な海をひたすらに落ちていく。隙間から漏れる泡だけが、上っていく。
――ああ、そりゃそうかもな、けどよ、もうどうしようもねえんだ。俺にどうしろってんだお前は。
「生きて、生きて生きて生きなさい、私の隣でっ」
泡の量が一段と多くなる。亀裂から赤い水が入り込んでくる。冷たさが裏返って、熱になった。血よりも赤い手のひらに、覆われる。
――へっ、なんだそりゃ愛の告白かよ、らしくねえな。
「減らず口が叩けるようならあなたは死んでない。帰ってきてもらうわ」
上向きの力に引っ張られる。視界が狭くなり、目が眩みそうな光が迫る。水面が近づく、四肢の感覚が蘇る。
――なんだか知らねえがお前は強引すぎるぜ、いつもよぉ
水が弾け、肺に空気が流れこむ。頭の重さを感じる。体内を巡る血の流れがわかる。心臓のように脈打つ石が、目の前で閃光を放っていた。
意識が還る。身体に力が湧き上がる。
指先がどこかに触れる。柔らかい、だが、燃えてしまいそうなほどに熱い。
ああ、畜生、また俺はこいつに助けられたのか。
「ここは地獄か……? それとも――」
「私達の生きる場所は、死者の国などではないわ」
痺れの残る手を握られる。
とても優しくて、とても柔らかい。
ああ、あたたかい。
いいもんだ、人ってのは。
これなら、もう一度、立ち上がれる。
「そうかい、だったら亡霊は成仏させてやらねえとな」
「ええ、今度こそやつをぶっ殺すわ」
起き上がってミラを見ると、その横顔に微笑が浮かんだ。
「手助けは必要か、お嬢さん」
「もらえるものなら、いくらでも」
並び立つ。赤と金色の光が視界を埋め尽くす。繋がれた手が煌めく。貴き黄金の炎が絆を燃やす。
「所詮、私は影、か……でも、黙ってやられてなんてあげないんだから!!」
敵の背後に展開する無数の剣。白炎を滾らせ刃を燃やす。それら全てが、同時に、猛烈な勢いで一斉に放たれた。
「「はああああああああああああ!!!」」
繋ぐ腕を振り上げる。光は全ての刃を消滅させる。
固く、固く、握り締め。渾身の一撃を悪夢へと叩き込む。
全ては光に飲み込まれる。
黄金の夜明け。
長い夜が、終わる。




