第50話 私に力を貸せ
ミラクリス・ディアナ・フラメリアはまた失態を犯した。
目の前で、人が死のうとしている。血まみれの腹部、力なく投げ出された手足。目は濁っていて、光がない。
自分と彼の間に、何枚もの仕切り板があるように思える。地面にへたり込む、血の沼を見下ろす。深奥に佇む赤の石、それよりももっとずっと、遠い。
「なぜ」
ケラケラと、間抜けな笑い声が響く。
「なぜって、『私』が弱っちいからじゃない。物事を複雑に解釈して罪から逃れようとする、成長がない、反省もない、だからこんなことになるの」
細いランスのような銀の右手を構えるそれを見る。傷一つない姿で、人を見下し、嘲笑している。それのつま先が瓦礫を踏むと、粉々に砕け散った。
「でも良かったじゃない。これで呪いは解かれる。また逃げたらいいわ、どこにでも、あなたひとりで」
刃を構えようにも、力が抜けてしまって身体は言うことを聞かない。水銀の塊は地面に根を張っている。適解、次の行動、奴を討つ、一時撤退、ベンバドルを避難させる。
やるべきことを、なすべきことを――頭は動いても、手足は動かない。
「この男は無関係のはずだった。どうして殺すの、なぜ私じゃないの」
「あなたのその顔が見たいから、他に理由なんて必要かしら」
歯と顎に力が入る。そんな、そんな理由で、これまでと同じようにまた人が、どうして。この男は生きていなくてはならなかったのに、なぜ、また私は。
「なぜ……なぜ……人はいつも……」
まぶたが落ちて、視界が黒く染まる。表情筋が崩れて、顔に痛みがある。目の奥から湧き上がってくるなにか。震えを起こす、胸の奥の鈍痛。喉から漏れる声にならない声。鼻をすする音、うめき声。
地面に手をついた。まぶたの隙間から、雫が落ちていった。
「ごめんなさい……私では……私には誰も……」
「泣くんじゃ……ねえ」
にじり寄ってきていた敵の足音が止まる。
「まだ生きてたのね。甘いわね、私」
「てめえは、黙ってろ」
敵は肩をすくめた。ベンバドルは寝ていた頭を僅かに上げ、こちらに向けていた。
「あなたまだ息が、す、すぐに治療を、治療を」
無理だ。助からない。穴を埋める。そんなことじゃ、命は救えない。
涙が溢れてくる。自分の意志では、止められない。
両手で顔を覆いそうになった。
「てめえは、なんで……泣いてんだ、俺のために泣くんじゃねえ……ぅゔ……ふざけんなふざけんなそんなこと俺はっ……」
顔から手が離れていった。涙は目元に吸収されて、肌荒れのようになった。
「なにを言ってるの、あなたは。私は泣いて、そんなこと今は」
歯ぎしりするように、ベンバドルの口が動いた。泥だらけの顔に生気が戻り、獣のように吠えた。
「お前は……てめえのために泣けっ……俺は……俺だっ……ッ」
ベンバドルの顔から色が消えた。重い音がして、後頭部が地面に沈んだ。
瞳はあらぬ方向を向いていて、口は半開きのまま。
死。人が死んだ。また死んだ。
「あなたは……あなたは……最後まで」
固く目を瞑る。顎が勝手に上ずっていく。そして、結んでいた口と一緒に、また目を開けた。
暗い紺の空。全てを覆い尽くす白い炎の壁。汗ばむ手。鳴動する胸。力の蘇るふともも。立ち上がる、両足。銀色の左腕は輝きを増して、刃になった。
敵は、目を丸くしてた。
「まさか『私』が泣くなんてね。けど、この期に及んでなんのつもり? 勇んじゃって、やっぱり死にたいのかしら」
「黙れ」
わずかに、敵は身体を仰け反らせた。
「お前など私ではない。誰一人大切だと思えないようなやつが、私を名乗るな」
「な、なによ急に博愛主義者ぶっちゃって。人の命なんてなんとも思ってなかったくせに。そいつが死んで本当は嬉しいんでしょ、重荷が消えて喜んでるんでしょ。だから全部消してあげる、あいつらも、その罪も、全部、全部!」
「私はもう、誰ひとり失わない。そのための奇跡を起こす、今、この場で」
「なにをっ……!」
左腕を、人の手に戻す。銀色の腕、水銀のアルケミスト。
ベンバドルの右手にまだ握られている黄金の短剣に、手を伸ばす。
「水銀と金の結婚。それを成し得たとき、赤い石は我の手元に下らん」
「まさか、自爆するつもり? そんなことをしても身を滅ぼすだけ、その男は救われない」
「救いなど与えるつもりはない。私は奇跡を望む、ただ、それだけ」
「やめなさっ――」
銀の指先が、黄金に触れる。
閃光。白銀の光と黄金の光が混ざりあって、溶ける。
左腕の感覚がなくなる。自分というものが曖昧になって、意識が、消させはしない。
「身勝手な振る舞いをやめろ、応えろ、私はここにいる。アルケミストミラは奇跡を望んでいる」
柄に手を掛ける。暴風。混沌。関節を逆に曲げたような激痛が走る。二千年の不可能を、可能に。過去の結果など、無関係だ。
「私に力を貸せ」
光が広がる。森羅万象を塗り替える。
内側にほとばしるのは――生命の赤。




