第47話 さよなら、優しいお兄さん
「あと少しだったのに……!! この私が、あ、ああああ……!」
コンマ一秒後には切っ先が触れる。これでミラは救われ――
「なーんちゃって」
「あっ……なっ……くそっ……どうして……」
身体はピクリともしなかった。
まるで大地に繋がれているような、抗えない重圧。指先すらも動きはしない。
あと少し、あと一歩、それだけの距離が、永遠にも感じられる。
ダメなのか。
「お馬鹿さんが二人、救いようないわね。まさか本当に気がつかないとでも思った?」
敵はいとも簡単にミラの拘束を抜け、
「絶望顔も悪くはないわね――さよなら」
次の瞬間。ベンバドルの腹部に、大穴が空いていた。
痛みすらもわからない。
絶望する暇もない。
わかるのは、自分は死ぬ、ということと、
ミラを助けられなかった、ということだけだった。
息を切らしたイーディスは廊下を進む。扉が見えてきたところでイグネアが目を開けた。
「わたしはもう大丈夫……一人で歩けます……状況は……?」
イーディスは一瞬緩みそうになった気を意識的に引き締めて現状を伝えた。背中から下ろすと、よろめきながらもイグネアは、なんとかといった様子で立ち上がった。
「ねえ、イーディス」
悠長に喋っている暇などなく、イーディスはすぐに動き出した。話があるなら歩きながら聞こうとして、しかしイグネアはその場を動こうとしなかった。
「どうしたの、姉さま。ごめん、今はおしゃべりしている暇はないんだ、だから、用事があるならあとで――」
「白い石を、渡してもらえますか。わたしが上に戻って、あいつを食い止めます。その間に、みんなを連れて遠くに、あなたが守ってあげて」
イーディスは足を止めた。止めざるを得なかった。白い石をぎゅっと握って、振り向いた。
「なに言ってるの、そんなのダメだよ。それじゃあミラ姉さまとの約束が守れない。……姉さまを置いてなんて、行けない」
イグネアが手を伸ばす。イーディスを見つめて、叫んだ。
「イーディス!」
そのまま覆いかぶさるように飛びかかってくる。鈍い衝撃音がして、気づけば二人の身体は廊下に転がっていた。腕を立てて、イグネアが身体を除ける。額には多量の脂汗が、背中からは真っ赤な血液が滴り落ちていた。
「姉さま!? そ、そんな、時間稼ぎにも、ならないなんて」
廊下の奥に奴が立っていた。あくびの真似事をして、こちらを嘲笑っている。
「足止めなんて不可能に決まっているじゃない。その女も、ちんけな仕掛けも、本気でどうにかなると思っていたわけ? 面白い、愉快で愉快で、あくびが出ちゃう」
見れば天井に大穴が開いていた。建物の崩落に耐えて、それも無傷で、床を貫いてきた。そんなのってない、めちゃくちゃだ。逃げる、戦う、どうすれば、いいの。
次のプランは、次の、プランは。
ない。
「逃げて……早く……ここはわたしが……」
「ダメだよ、ダメだってば、そんなことしたら、姉さまが、死んじゃう」
「そうしなければみんな死ぬ! 石を――かはっ」
鮮血が飛び散った。背中から口から、身体中から。血まみれになったイグネアが崩れ落ちる。
「姉さま、姉さまってば、死んじゃ嫌だ、死なないで、死なないでよ……!」
いくら身体を揺すっても、答えてくれない。視界の奥で、悪夢が笑っている。取り乱すイーディスの様子を見て楽しむように、笑っている。
「死ぬのよ、あなたも、そいつも、子供たちも。みんなみんな、ミラのせいで死んじゃう。生きることを望んだから、望んでしまったから、死んでしまう。哀れよねえ、悲劇よねえ、大人しく自殺していれば、みんなは生きられたのに」
足音を響かせて、悪夢がやってくる。一歩一歩ゆっくりと、歩みを進める。
震えが止まらない。なにかを言おうにも、言葉にならない。後ずさる、下がる、下がる、床を這いずって、逃げる、逃げなきゃ、殺される。違う、戦う、戦わなきゃ、なにか武器は、武器は。
イーディスは咄嗟に右腕を伸ばした。握りしめていた白い石を突き出す。
「く、来ないで、イーディスにはまだ……まだ……!」
助けて、力を貸して、今だけでいい、この瞬間だけでいい、イーディスに戦う力をちょうだい。お願い、お願いします。死なないって、誰も死なせないって、約束したんだ。姉さまと、だからっ。
「どうしてよ……どうして……」
石は応えてくれない。祈ろうとも、懇願しようとも、決して。
イーディスが偽物だから。贋作だから。
「馬鹿みたい、そんなものにすがっちゃって。叶うはずのない恋心。あなたは死ぬまで、無視され続けるの。誰もあなたを認めない、誰もあなたに力を貸しはしない」
イーディスは後退を続けた。もう扉は目の前だった。
悪夢は倒れるイグネアを足蹴にして、踏みにじる。血反吐が床に飛び散った。
「応えて……応えてよ……どうして……どうしてもダメなの……イーディスに力がないから? 誰も守れないから? 弱いから、無視するの、こんなにも、求めているのに……」
「その通り。弱いあなたはひとりぼっち、ちんけな石にすらも見捨てられる」
悪夢の指先が鋭利な刃に変わって、すっと喉元に伸びてくる。




