第38話 返してやる――愛を!
よく晴れた空、暖かい風が吹くと、さっと音を立てて芝生が揺れた。
ミラの希望でやってきたのは、市街地から離れた小高い丘だった。
ここに来る途中手に入れた白百合の花束を両手で抱えて、ミラは木陰にある二つの白い石碑の前で足を止めた。それぞれに簡素な囲いがあって、距離はそれほど離れていない。
ここは墓地だ。
名の刻まれていないそこに花束を手向けて、ミラは深く目を閉じた。長い、長い間そうしていた。ベンバドルは一歩引いたところで、その姿を見守った。
「ん」
墓石の上に広がる木の傘がざざっと揺れた。ベンバドルが目を凝らすと、人の素足のようななにかが樹冠の奥へと引っ込んでいった。なにやら小動物が潜んでいるらしいが、ひとまず見なかったことにした。
背を向けたまま、ミラは言った。
「これは私が勝手に建てたもの。誰が生きて、誰が死んでいるかも知らないまま」
ミラの視線は、名もなき墓石に向いていた。
「死者に許しを請おうとも、なにも答えてくれはしないのね」
「死人に口なし。好きに決めちまえるのが、生きてるやつの特権だな」
「その軽薄な考え方、あなたらしいわね」
「お前だってちょっとくらい肩の力を抜いてみろよ。そいつらだって、気楽に生きろよって思ってるぜ」
「そうやって自分の考えを一般化して押し付けようとするのは悪い癖よ。勝手に解釈して許されようなどと、私には……。罪は消せない、命ある限り」
ミラの声には静かながらも、力強さがあった。
「でもね……」とミラは環境音に紛れてしまいそうなほどの小声でつぶやいた。斜め下を向いて、なかなか続きを言おうとしなかった。
ミラは墓石に目を向けた。はっとしたように顔が上がって、結んでいた口が開かれた。
「……一人くらいなら、自由に生きることを望んでくれているかもしれない……ここに来てみて、そんなことを思ったの」
ミラは分割していた白百合を、隣にある墓石にも添えた。
その場でしゃがんだミラは、祈るように胸に手を当てた。
「ごめんなさい、騒々しくて。一応紹介するわ、後ろにいるのは、仕事上のパートナーで、……信じられないくらい大馬鹿の、がさつな男」
「うるせぇ」と悪態を吐いてもミラは気にしなかった。
「心配しないで、必ず約束は守るから。指輪はあなたのもとに」
ミラはしゃがんだまま顔を上げて、今度はベンバドルに話しかけた。
「ここに眠るアイシアも大切な家族の一人。けど、そりが合わなくて、最後まで不仲だった。憎しみを抱かせたままだった、と、ずっと、ずっとそんなふうに思っていたわ。……でも本当は、こんな私に、身を以て教えてくれていたのかもしれないと、今になって思う。あの子はずっと言ってたの、死に場所くらい好きに選ばせろって……なのにどこにも行こうとしなかった、どこにだって行けたはずなのに」
ミラはもう一度、墓石を見つめた。
「また来るわ」
風が吹き抜けていって、灰色の長髪がなびいた。
ミラは腰を下ろしたまま、なかなか立ち上がろうとしなかった。感傷に浸るにしても長すぎて間が持たなかったので、無粋とわかりながらもベンバドルは声をかけようとした。そんなときに頭上から物音がして、ミラはその姿勢のまま顔だけを上げた。
「姉さま覚悟っ!」
樹冠からちっこいのが飛び出してくる。なにやら両腕に剣のような武器を身につけていて、イーディスは対話よりもなによりも、まずは決着をつけることを望んだようだった。
ミラは一歩も動かず左腕を掲げ、頭上からの一撃をいなす。放り出されるようになったイーディスは、すぐさま地面を蹴り、右手に握りしめていた黒い石をミラに投げつける。パンっと音がして瞬間的に閃光が弾けるが、ミラはそれを避けようともしなかった。
愚直に突っ込んできて振りかざす剣を素手で掴んで、軽く力を入れただけのようなのに、ミラはそれを粉々に砕いてしまった。とんでもねえ馬鹿力だ、と思って、口に出すと殴られそうなので我慢する。イーディスも同じことを思っていそうな顔で唖然として、すぐさま無事な方の剣で攻撃する。が、結果は同じで、傷一つつけられずにそれもまた砕けて散ってしまう。
後ろに飛んで、歯噛みするイーディスにミラは言う。
「来なさい。私を殺したいのでしょう」
「っ……!」
イーディスは武器も持たずに突進した。ミラはそれを軽くいなすと、腕を掴んで容赦なく地面に叩きつけた。短い悲鳴。必死の形相で起き上がるイーディスがさっと背中に両腕を回す。都合十個の黒い石を至近距離からミラに叩きつけようとするが、水銀と化した左腕がそれらをことごとく破砕した。
幼児の戯れを受け流す大人のようだ。まるで相手になっていないが、それでもイーディスは歯向かい続ける。何度も投げ飛ばされ、何度も転がり、何度も背中を強打する。ボロボロだった衣服はさらにボロボロになり、口元からは血が滲み、呼吸は荒々しい。ギラッと開いた目は充血していて、歯はむき出しになっている。
「姉さまには……姉さまには……姉さまなんかにぃ!!」
「イーディス!」
イーディスが伸ばしてきた手に、ミラはわざと掴まれたようだった。互いに胸ぐらを引き寄せて、額がぶつかりそうなほどの至近距離で睨み合う。イーディスが叫ぶ。
「姉さまは、姉さまはイーディスを見捨てた!」
「私は万能ではない! 全員の願いを受け止められるほど、出来た人間ではないのよっ!」
「この期に及んで開き直るつもりなの!!」
「罪は罪、過去は過去、私は私、けれど、それだけではないっ、私にだって、今があると、教えられたのよ!」
「このっ」
イーディスはミラを押し倒そうとした、しかし許されず、反対に押し倒された。地面に転がるイーディスに、覆いかぶさるようになりながら、ミラが叫ぶ。
「あなたにだってもう許されようとは思わない! そんな身勝手には、自分で辟易とするのよ! だからイーディス、あなたにだって、生きている人間には、こうして触れ合える人間には、与えてもらったものを返してやることにしたのよ!」
首元を抑えられたイーディスが、苦しそうに言う。
「か、返すって、なにを」
ミラは息継ぎもせず、唾が飛び散るほどの勢いで叫んだ。
「愛をっ!!」




