第33話 腕一本の通行料
すぐさま室内に戻り、脇目も振らずミラの私室を目指した。
早歩きで廊下を抜けて階段にたどり着き、一段目を踏みしめたところで、それは起こった。いや、起きていた。なんの変哲もないその空間が、皮膚に痛みを感じるほどの超高温に支配されていたのだ。
あまりの熱気に歪んでしまった視線を持ち上げると、最上段にこちらを見下ろすイグネアの姿があった。
充満する熱とは対照的な、冷え切った、つまらないものを見るかのような目をしていた。
「おはようございます。私のことは気にせず、どうぞお通りになってください」
埃が燃え、バチバチと音を立てているが、汗ひとつ浮かべずにイグネアは平然としていた。
「通行料は、安くはありませんが」
吹きすさぶ熱風がベンバドルを圧倒した。皮膚が粟立ち、髪が逆立つような感覚があった。イグネアの左腕が、赤熱するように赤い光を帯びていた。
「そうかい、じゃあ通らせてもらうよ。料金はツケといてくれ」
「イーディスはそんなものまで隠し持っていた。最初からグルだったのですね」
「ところがどっこいそうじゃねえ。さっきグルになったんだよ。こいつで悪者を倒してくれだとさ」
イグネアより二段下まで進んで、そこで足を止めた。止めざるを得なかった。
右手を掴まれた。握るのではなく、掴む。甲の側に親指が、手の平の側にそれ以外の指が、圧迫感を感じるほどの強さで挟み込まれた。
「そんな言葉を信じろと」
「あいつを殺すってんなら、わざわざこんなもん使わなくていい」
手の甲にじんわりと熱が広がる。鉄の棒を押し付けられて、それが徐々に加熱されていくような感覚があった。
「通行料です。この腕を頂きましょう。それぐらいの覚悟を示してくれるのならば、あなたを信じてみてもいい。無理だというのなら、今すぐご帰宅なさってください」
「まいったな、こいつはそれなりに大事にしてるんだ」
「取引に応じられないというのなら、それで構いません。ここから立ち去り、二度と姿を見せないでいれば、あなたに危害を加えません。腕一本――払えるはずがないでしょうね」
「そうだな、こっちは利き腕なんだ」
ベンバドルは、短剣を上手いこと腰に刺して、空いた左腕をイグネアに向かって伸ばした。
「こっちにしてくれ。左なら、まぁ、無くてもなんとかなる」
イグネアは手の力を緩め、目を見張った。
「……正気ですか」
「お前が言い出したことじゃねえか。正気じゃねえとは思うさ、けど、これまで好き勝手に生きてきたんだ、たまには身体張るのも悪くねえ」
「早くしてくれ」と言ってみたが、イグネアは下を向いたまま動かない。なにか言いたそうに唇が動くが、すぐに止まってしまう。
ベンバドルの左手をイグネアは掴んだ。こころなしか手つきが繊細な気がした。
「あなたは、なぜここまで、なんのためにこんなことをしますか」
「あいつを、ミラを、許してやるためだ。俺みたいな無責任なやつにしか、お前は悪くないなんて言えねえからな。早いとこやってくれ」
「……左腕を失ったあなたを見て、ミラはもっと自分を責めてしまう」
それは、そうかもしれない。いや、しかしこれは自分で決めたことだ。ミラが悪いわけじゃない。とはいえ気に病むのは間違いないわけで、しかし――
「あなたはミラの客人です。ですから、これ以上の実力行使は、私の権限にはありません」
「……いいのか?」
「……裏切ることは出来ませんから」
イグネアは手を離した。自分の胸を抱くようにして、階段に座り込んだ。いつの間にか熱気は収まっていた。赤熱していた左腕も、すっかり元の姿に戻っている。
「あなたの腕は私のものです、私のものはミラ様の所有物です、ですから大切にしてください……あの方にこれ以上罪を背負わせないでください……」
「ああ、そうさせてもらう」
「私にはできなくて、あなたにしかできないことがあるのなら……それを全うして、その言葉は嘘ではないと証明してください……ミラ様のために」
ベンバドルは深く頷いて、階段を上っていった。
二階に上がって、ベンバドルは目を細めた。すぅっと細長い光が伸びていて、思わず目を覆いたくなった。
朝焼けが、廊下を照らし始めていた。




