第30話 俺が許してやる
混じり気のない澄んだ瞳をしていた。見つめられて、力も、気も抜けた。
架空の話だとしても、いや、たとえ現実に起こった話だったとしても、それでもミラを許してしまえる。ナタリーはたぶんそういうやつだ。
誰もがナタリーのように考えられるわけじゃない。ミラ自身のように、罪を許せない人間もいる。悪夢が生まれたのも、その罪悪感のせいだ。あれは人の心の暗い部分が具現化した存在なのだから。
どうやったらあいつは自分を許せるのやら。
ベンバドルはふっと息を吐いて、ほのかに笑みを浮かべた。
「……そうだな、そうかもしれん」
さてどうしたものか、と思う。顔を正面に戻して、暗い天井を見上げた。
ナタリーに倣えば、やはり最後まで一緒に戦ってやる、ということになろうが。
「ベンもミラも、あのイーディスって子のことで悩んでるの?」
「ん、どうだろうな、……あいつも無関係じゃないか」
そもそもミラの悪夢はなぜ生まれた、という話になる。悪夢とは自然発生するものであるとされているが、行動を共にしていたあたりイーディスは人為的に誕生させた可能性がある。
理屈や仕組みは不明だが、あるいは元凶なのかもしれない。
あいつが、復讐心に囚われていたから、こんなことになった。
そういうことなのかもしれない。
「また悪いことをしたのね! もう、素直に謝れば、一緒に暮らせるのに!」
「……そいつは無理だろうよ、あいつは、それだけのことをしちまったんだ。お前だって、怖い目に合っただろ」
「わたしのことはいいの! 全然怖くなかったわ! それより、あの子のほうが心配ね!」
なにも知らないからそんなことが言えるんだ、と思った。思ったが、口にする前に引っ込んでいった。
知ったところで同じか、こいつは。
「イーディスを怒らないであげて、きっと寂しいだけなのよ!」
「なんでお前があいつの肩を持つんだ。被害者のくせにたくましすぎるぜ」
「お願い。もし聞いてくれたら、しばらく午後のおやつはベンにあげるから」
祈るように手を組んで、上目遣いで見上げてくる。たまらず目を逸らしたベンバドルは、痒くなった首筋をかいた。
「……仕方ねえ、そこまで言われちゃ、怒ってばっかじゃいられねえな。つっても、本人がどうだか、それが一番問題だがな」
「きっと大丈夫!」
真っ直ぐに前を見つめて、ナタリーは根拠もなくそんなことを言った。
それからもいくらか話をして、やがて船を漕ぎ始めたナタリーを二階まで連れて行った。もう寂しくないからと言って聞かせて、しゃがみこんで手を振ると、大きなあくびをしながら部屋へと入っていった。
窓の外から笛の音が聞こえてきたのは、そんなときのことだった。
裏庭に出てみると、芝生の切れ目の奥にイーディスの姿があった。
イーディスは片手にサンガマと呼ばれるあの笛を、反対の手に朱い布で包んだ何かを握っていた。銀色の髪飾りが、闇夜にキラリと輝いた。
「こんばんは、お兄さん。――姉さまは、死ぬ気なんだね」
「物知りだな、誰から聞いたよ」
「経験と知識からの推測……イーディスは姉さまを徹底的に苦しませようとして、袋小路になるように仕向けてて……だから、あの悪夢は、それを引き継いだだけなの」
イーディスの視線は、足元を向いた。ミラに用事があって来たのだろうに、そこから一歩も動こうとしない。
ベンバドルもまた、その場から動かずに呼びかけた。
「そんなとこに突っ立ってねえで、こっち来いよ。茶の一杯くらい出すぜ、おれんちじゃねえけど」
「……ここでいい」
ベンバドルはくくと笑った。やはりしょげてる姿は年相応だなと思う。寂しいだけ、その通りかもしれん。らしくねえこと、してみるか。
ベンバドルはイーディスに近づいて、抱えた包みを奪い取った。予想外だったのだろう、抵抗もなく手放して「ちょっ」と間抜けな声が聞こえてきた。
羽根のように軽いそれをベンバドルは両手で抱えて「もーらい」庭の中ほどまで駆け足で下がっていった。
イーディスが手を伸ばした。奪い返しに来ようとしていたようだったが、また足元を見てあからさまに躊躇した。
「返してっ、それは大切なものなの!」
「だったら自分で取りに来いよ。難しいこと言ってんじゃない、こいつがなんだか知らねえが、ここまで来るならちゃんと返してやるよ。別に億劫じゃねえだろ、それともなにか」
ベンバドルは、庭と外の境界線に目を向けた。イーディスのつま先は、ピタリとその前で止まっていた。
「自分は敷居を跨ぐ資格なんてない、そんなふうに思ってるのか」
イーディスは顔を上げようとしなかった。
目を伏せたまま静かに「……そうだよ」と呟いた。
イーディスは震えを止めるように、自らの腕を押さえつけた。
「殺されそうになって……わかったんだ……イーディスは……イーディスは……何もかもを甘く考えすぎてた……自分がなにをしているのか理解してなかった……」
鼻をすするような音が聞こえる。暗がりに薄っすらと浮かんだ目元に、光るものが見えた。
「死ぬってことがどんなことなのか、全然わかってなかったんだよ……! 幸せを妬んで……恨んで……禁忌に手を出してしまった……」
イーディスは顔を両手で覆い、嗚咽するような声を漏らした。
大丈夫だとナタリーは言った。ミラはこれっぽっちも憎んでいなかった。
目の前でガキが泣いている。
だったらこう言ってやる。
「俺が許してやる。だからこっちに来い」
イーディスの赤く染まった目が、大きく見開いた。
「なんでお兄さんがそんなことを言うの。どうしてそっちにいるの……意味もわからず巻き込まれただけなのに、なんで……笑ってるの……!」
笑っているのか俺は、とベンバドルは思った。
「一歩踏み出してみろよ、わかるぜ。きっと、いいや、絶対に誰もお前を責めたりなんてしねえからよ」
「そんなの……イーディスには……」
「信じられない、ってか、たく、仕方ねえな、じゃあ交換条件だ」
肩を揺らしながら、ベンバドルはゆっくりとイーディスに近づいた。膝立ちになって、その小さな腕にそっと手を添えた。
「お前もミラを許してやってくれ。それで手打ちってやつだ、そうすればあいつも生きようって気になるかもしれねえからよ」




