第25話 自殺しなさい
悪夢は顔を上げて天井を見た。もう空はほとんど青くなっていた。足元の黒霧は、段々と薄れてきていた。悪夢は夜にしか現れない。だからやつは「時間切れね」と言う。
「罪深き『私』にはさらなる罰をあげる。簡単に解除できる甘ちゃんな呪いじゃない、本物の烙印を」
悪夢はミラの顎を持ち上げて、胸に触れる。弱々しく抵抗しているが、全身の筋肉が硬直しているようで成すすべもない。撫でるように指の腹で月に触れると、白一色だったそれに波打つような模様が現れた。
「二人の距離は日ごとに半減する。四日の後、互いを抱きしめながら苦しみのうちに野垂れ死ぬことになる。これを解く方法はひとつだけ、私が消えるか、『私』が死ぬか」
悪夢が手を離すと、ミラは地面に転がった。嗚咽するような声を漏らしながら、胸元を抑えて丸まっている。
「子供たちと遊んだり、その男と愛を育んだり、贋作ちゃんを救おうとしたり、ましてや真理の探求なんかでもない。『私』にはやらなくちゃならないことがある。頑張ってね――」
悪夢は口をミラの耳元に寄せる。ささやく。
「――自殺」
離れると悪夢はにこやかに手を振った。身体が透明になっていき、まもなくして黒霧と共に消滅した。
拘束が消えて自由になったベンバドルは、強く地面を殴った。
「くそっ……!」
奥歯を噛み締めて、うずくまるミラの背中を睨みつけて、それから、目を逸らして深く息を吐いた。
重い身体を持ち上げて、黙ったままでいるミラの前に立った。意識的に呼吸をして、心を落ち着かせて、冷静になれたところで言った。
「……ナタリーを、探しに行こう」
ミラは動こうとしなかった。気力なんてなく死人のようにぶつぶつと呟いた。
「私には、もう、合わせる顔がない」
「どうしてだよ。あいつは無関係だろ。てめえの過去になにがあったか知らねえが、やることはやるんだよ。そのために来たんだろうが」
ミラは微かにしか聞き取れない声量で、なにかをしきりに口にしていた。それは呪詛のような懺悔のような、自分への罵詈雑言と、世への恨みつらみを分解して、負の感情で包みこんだような、聞くに耐えない言葉の羅列だった。死、罪、悪、そのような単語がいくらか聞き取れて、ベンバドルは口を挟んで無理やりそれをやめさせた。
「いいかげんにしろ。俺達はまだ生きてるじゃねえか、生きてるんだよ、だったら、だったらなあ、やらなくちゃいけねえことはごまんとあるんだ。嘆くのは死んでからにしやがれ」
はっとしたようにミラが一瞬だけ顔を上げた。涙が出ていないのが不思議なくらい悲痛な顔をしていて、それだけ見せるとまた地面に目を戻した。
最初は静かに、しかし段々と自暴自棄が加速してくような調子でミラは叫んだ。
「ナタリーは……ナタリーの両親は……悪夢に殺されたのよ……!」
肩から力が抜けて、頭に空洞が出来たような気がした。一瞬なにも考えられなくなって、そうか、という思いがぽつんと浮かんでくる。
あの夢、あの暗い夜の記憶。ミラはナタリーを救った、だがその裏側は。
地面にへたりこんだミラの背中は、小刻みに揺れていた。ただ泣いていないだけだった。
その姿を見て、胸に残っていた熱がすっと引いていった。
罪を責めたら、こいつはきっと自分から首をくくる。そんなことを思った。
頭が詰まって、自分の思考に不快感を覚えた。
簡単に答えは出せそうになかった。
ナタリーはホールから進んだ先の一室で、すやすやと眠りこけていた。置かれた状況や外の騒ぎなど知らんという顔で、お気楽なのか豪胆なのか、いずれにせよ無事であることには違いなかった。
そう思っていた。はだけた胸元に気づくまでは。
「こいつは……くそっ」
ベンバドルは壁を殴った。ナタリーの胸には、太陽の紋様が刻まれていた。
こんなときにミラのやつは部屋に入ろうとせず、離れたところで待機していた。それが余計にムカついた。
その音で目を覚ましたナタリーが、眠そうな目をこすった。
「……だぁれ? ……また悪い子?」
「……俺だよ。悪い子かもしれねえが、敵でもねえ。さ、帰るぞ」
ナタリーはなにかを探すように首を左右に振った。
「……ミラはどこ?」
「近くにいるよ。……埃や泥まみれで酷い顔だってんで、お前に合うのが恥ずかしいんだとよ。心配すんな、すぐに会えるさ」
「そう……気にしすぎがミラの悪いところね……」
「まったくだ。どうして俺なんだろうな、お前を迎えに来たのが」
廊下に出て探してみても、ミラの姿はどこにもなかった。呪いがある以上、遠くには行けないはずだが、上手いこと身を隠しているらしい。同じ家に帰るというのに、どこまで逃げ回るつもりだろうか。
ナタリーは眠そうにあくびをした。
「ねえベン……あの子はどこ……?」
「あの子?」
「悪い子よ……イーディスって言ってた……一緒にミラに謝ろうって約束したの……」
「あいつか。さあな、どっかに行っちまったよ。気難しいんだ、あの手のは」
「そう……」
ナタリーの声色が、少しだけ沈んだような気がした。
ベンバドルは部屋の扉に目をやった。分厚い鋼鉄製の扉で、鍵穴も備え付けられている。しかし施錠はされておらず、それどころか最初から開け放たれていた。
「ミラのように……人を助けるのは……難しいものね……」
「……なにもしないよりはずっといいさ」
一歩先も見えない地下道を進んで、地上を目指した。ナタリーはいつの間にか、再び眠りに落ちてしまった。石畳の床を叩く足音がひとつ、少し離れたところに消えそうな足音がもうひとつ。沈黙する闇の中をゆく。前へ、前へ、と。
光は差し込まない。地上に朝日が昇ってもなお、ここは暗いままだ。
進んで進んで打ちのめされて、いつになったら朝は訪れるのだろう。




