第20話 手の届く範囲なら
頬を拭ったミラは、指についた赤い液体を見て立ち尽くした。
イーディスの声が空間に反響した。
『また、殺したんだね。かわいそうに、死んだらオシマイなのに。自分が生き残るために誰かを殺したんだ。イーディスにもそうするつもり? 白い石を渡すふりをして……でも、そのほうがらしいかもね、ね、ミラ姉さま』
「私は……人殺しなど……」
ミラは瞬き一つせずに、手の平を見つめている。肩が小刻みに震え、なにか言葉を発しているが、上手く聞き取れない。
「俺が変わる。お前は下がってろ」
ミラの目元には力がなく、眉は垂れ下がっていて、口は半開き。いつものような活力も、凛々しさも、無表情すらもない。道端に捨てられた子犬のような表情。しかしそれは一瞬のことですぐに顔を引き締めた。
「心配などいらないわ。私は大丈夫。誰の手も借りる必要はない」
ミラはまた駆け出す。無数のゴーレムを間髪入れずに切り捨て、左腕を血に染めながら、突き進んでいった。
やがて、両開きの鉄扉に突き当たった。鍵穴に細身のナイフが突き刺さっており、その切っ先にウロボロスの指輪がかけられていた。
「……これで全部。この先で、イーディスが待っている」
ミラはそれに手を伸ばそうとせず、その場で振り返った。目を伏せて数秒ほどなにかを考えるような素振りを見せ、それからベンバドルを見上げた。
「ここからのことは、私に任せて。あなたが解放されるように交渉する。だから、勝手なことは、イーディスに手出しはしないと約束してほしい」
「したら俺に得があるのか」
「戦うだけが解決ではないと、私は信じたい」
見つめあったまま、黙り込んだ。あまりにも大真面目な顔をしているものだから笑い飛ばす気にもなれず、やがてベンバドルはふっと息を吐いた。
「そうかい。ま、そういうことなら、せいぜい楽させてもらうよ」
拳銃をホルスターに収納し、手のひらを広げて、武装解除を見せつけた。
ミラは無言で頷いた。会話はそれっきり、向き直るとナイフに手をかけた。
その多くは背負えなさそうな小さい背中を眺めて、ベンバドルは心の中で呟いた。
まぁ、上手くいきゃ文句ねえさ、上手くいけばな。
扉の先は大広間だった。朽ちた長椅子がいくつも並び、崩落した天井から月明かりが差し込んでいた。牧歌的な笛の音色が聞こえている。見れば、壇上で、背丈の半分ほどもある笛をイーディスが演奏していた。
ミラはベンバドルにアイコンタクトでここで待つように伝え、広間の中央を真っ直ぐに歩いていった。
足音が止まると同時に、演奏も途切れた。
「この笛はね、サンガマって言うんだって。遠い遠い場所から流れてきて、グリムから逃れようとする旅の商人が捨てていったの。また戦いが始まるかもしれないのに、こんなものを持っていけないって、いらない、って。なんだか、イーディスみたいじゃない?」
イーディスは舞台役者のように壇上を歩き回り、流し目でミラを見て指を鳴らした。
すると、地鳴りがし、ホール全体が揺れた。ミラを挟むようにして、地面が捲れ上がり、巨大な石の塊がゆっくりと動き出した。その石は徐々に人型を形成し、重々しい音を立てながら立ち上がった。現れた二体の石の巨人は、看守のようにミラを囲んでいる。
人の倍ほどの背丈。巨人の目に赤い光が灯る。彼らは命令を待つかのように微動だにしない。
ミラは、ブレることなくイーディスを見つめていた。
「イーディス」
「気安く呼ばないで。今更親しくしてみせようとしてるの? そんなのおかしいね。姉さまにとってイーディスはもう過去の人なのに。多くの民と変わらない、ただのひとりの死人なのに」
「どれだけ頭を下げようとも、許されるはずないのだと理解している。それでも、私はもう一度あなたと――」
「謝罪なんていらない! ただ姉さまは姉さまらしく本分を忘れないで生きていてくれれば、それでよかった。なのに、なのにだよ、どうして慈善活動なんかにかまけてたの。どうしてナタリーを救いに来たの!」
興奮したイーディスが手を振ると、呼応するように石の巨人が一歩前に出た。
ミラは目を逸らしかけて、すぐにまたイーディスを見据えた。
「あの家の住人、その半数はフラメリアの子供たち。あなたも、そのことは知っているでしょう。彼らを保護するのも私の責務だった」
「知ってるよ、知らないはずがない。だけど、あとの半分は違う。あのナタリーだって、血迷って迎え入れたただの孤児。代償を支払って救う価値なんてない!」
ミラは言った。
「私は、誰も見捨てたくない」
イーディスは拍子抜けしたような声を漏らした。
「は……?」
「万人の救済など今の私には難しい。けれど、手の届く範囲なら出来ることがある。人は、我々は、自分のためだけに生きるべきではないと、私は思う」
「……馬鹿にしないで。そんなの自己満足。姉さまの叡智はただの親切になんて使われるものじゃない。もっと大きな、大いなる目的のためのもの。一人二人を救ったところで、なにが変わるの? わかるよね、なにも変わらない。なにひとつ変わらないんだよ。ナタリーが死んだって、生きたって、なにも!」
ミラは頷いた。
「あなたの言うことは理解できる。だけど、他の選択肢は選べなかった」
イーディスは怒りをあらわに、前のめりになって叫んだ。
「なにそれ、全然意味わかんないっ!」




