第18話 落日の地への招待状
火災から一夜明け、貧民窟は元の姿を取り戻していた。一切の痕跡は残らず、人々は記憶すらも無くしてしまっている。直に悪夢と対面したものだけが、出来事を覚えていられた。
古びた二つ折りの紙が孤児院の扉へと挟まれていた。無記名でも差出人が誰なのか悩むことはなかった。これは招待状だ。
ミラの私室で中を改めた。
天使は時の簒奪者
アポロンは針を進め、二度と還らん
ディアナは影を写し、常夜に我ら盃を交わす
汝、闇こそ相応しかりければ、光を避けん
違え、盃落つれば、契は果たされる
落日の地。救済の志、今は、眠りのなか
「取引に応じるつもりがあるのなら、夜の間、次に朝日が上るその時までに訪れろ、とイーディスは言っている。もし決まり事を守れないのならば、ナタリーを、……ナタリーを殺めると」
「わかるのか。場所はどこだ」
ミラは棚の上に周辺の地図を広げ、西側の一帯を指差した。市街中心部より離れた、森林や田園が広がる郊外の辺りだ。内陸側で、なだらかな丘の連なる丘陵地帯へと繋がっている。民家もいくらかは点在しているはずだが、おそらく数は多くない。
「この辺りに、救済を謳う施設があるはず。それも古い、おそらくは今では使われていない場所。そこにあの子はいる」
ミラはベンバドルを見た。心当たりはないか、と尋ねられているようだった。
心当たりは、あった。
「そいつなら知ってるぜ。ガキの時分ぶち込まれそうになったことがある。ずいぶんとオンボロでな、今じゃ移転したとかっていう救貧院がある。とはいってもだな、あいつの根城だって保証はできねえぞ」
「いいえ、そこに違いないわ。あの子はなにも私を欺こうとしているわけじゃない。こんな子供だましはただの戯れ、気づかれるのを承知で送ってきている。さっそく向かいましょう。悠長にしている時間はないわ」
「待てよ、なんだってわざわざそんなことをする。誘い込みたいってんなら、暗号なんかじゃなく、名指しでいいじゃねえか。どうして裏がないと確信できる、もう少し慎重に行動してもいい」
「アルケミストという人種はね、意味もなく符丁を使いたがるものなのよ。そう、あの子はアルケミストとして私を叩き潰す気、だから、作法に則った」
「果し状ってわけか。大人しく決闘でもしてればいいのによ」
「それは、その通りよ。どうしてイーディスは、他人を巻き込むようなことを……」
ミラはぶつぶつとつぶやいて、顔を伏せた。また自分の世界に入っている。こういうやつだから、と思う。イーディスは姉さまの扱い方を心得ている。
「嫌がらせってのは、そいつにとってなにが苦しいのか、よく考えてやるもんだ。お前、自分だけが殴られても、別に嫌じゃねえだろ。しかもそれが大切な妹なら、なおさらな」
ミラは目を細めた。忌々しそうにベンバドルを睨んで、それから扉へと足を向けた。
「あなたと一緒にしないで。きっと、深いわけがあるはずよ」
「わかってねえなミラクリスお姉様。言ったろ、ガキなんてのは、思ってるより単純でもねえんだ。舐めてかかってると、足元すくわれるぜ。いや、もうすくわれてんのか」
ミラは廊下に出る直前に、足を止めた。
「あなたの姉になったつもりはない。知ったような口を聞かれたくもない。その名前で呼ばれたくもない。私はミラ、ただのミラよ。それともあなた、夢、記憶の内容を吹聴されたいの?」
「おっと、すまんすまん。そいつは勘弁してくれ、単純じゃねえ少年時代だったんだ。バラされてお縄なんて嫌だからな」
耳の痛い話だ。ガキの時分はなんだってやった。盗み、スリ、詐欺、その他諸々。悪事ってやつに抵抗はなかった。生きるために必要なことで、そうしなければ生きられなかったから。
救貧院なんぞにぶちこまれたくなかっただけかもしれねえが。
ベンバドルは自嘲するように笑った。
「ま、油断せずに行こうぜ、パートナー」
「言われるまでもない」
足を踏み出したミラに、ベンバドルは続いた。
孤児院を出てすぐのところで、路面に鈍く光るものを見つけて、ミラはそれを拾い上げた。蛇の胴体が象られた指輪だった。ベンバドルはその指輪に、正しくは近しい指輪に、覚えがあった。あの夢のなかで、ミラクリス――ミラが受け取っていたものによく似ている。
「円環の蛇……完全なるものの象徴であるウロボロスを模した指輪よ。最高位のアルケミストだけに与えられる、象徴」
水気を含んだ土にまみれていながらも、その指輪は磨き上げたばかりのような輝きを放っている。
「それもあいつの仕業か」
「イーディス……」
その指輪を、ミラは固く握りしめた。
「七つのうち、三つの所在は把握していたけれど」ミラは一瞬口ごもった。「……他は収奪されたと思っていたわ」
ミラは指輪を乱雑に腰のポーチに投げ入れた。
「あいつはなんだってそんなもんを寄越しやがった」
「わからない。けど」
視線を自らの左腕に向けて、ミラは言った。
「同じ細胞でありながら、イーディスは水銀には適合しなかった」
「ああ? なんだそりゃ、さい……だからもっとわかりやすく言えって」
「素質がなければ、指輪は与えられない」
ミラはつぶやいた。
「……それでも目指していたのよ、決して届かないと知りながら」
日差しが建物に遮られ、ミラの横顔に影がさした。
辻馬車の御者に金を握らせ、救貧院近くの街道に着く頃には、もう夜だった。空は雲に覆われて星一つ見えない。周囲は広がる原野と鬱蒼とした木々ばかりで、足元すらも闇に包まれていた。
ランタンを用意し地図を改めようとしていると、ミラは地面に向かって手を伸ばした。落ちていたのは、また同じような指輪だった。
「行きましょう、二人が待っている」




