第11話 どうして私は泣けないのだろう
子供たちが、また愉快な声を上げた。
ミラの指先が少し張った乳房に触れると、イグネアは「んっ」という艶かしい吐息を漏らした。
力を入れすぎたのだろうか、とミラは思い、そっと指を離した。
「痛みがあるのかしら?」
頬を両手で抑えて、イグネアはポッと顔を赤らめた。
「もう少し優しくしてください……ミラの手つきは刺激的すぎます」
ミラは瞬きひとつせずにイグネアを見つめ、数秒経ってからコクリと頷いた。
「熱があるみたいね。抑制剤を打ちましょう」
「いえ、身体は平気です、煤石は安定しています。でも」
「でも?」
「心が痛むんです、それで火照っちゃって……」
「診察を続けましょう」
顔色一つ変えずに、ミラはその医療的行為に戻っていった。
服を着てもらい異常がないと伝えると、イグネアはこんなことを言った。
「あの人、何者ですか? 恋人……ではないと思いますけど、私のミラはそんな浮ついた考えなんて起こしませんもんね」
「あの男は、仕事上のパートナーよ。数日でいなくなる、気にしないで」
「どんな仕事ですか? 危険な仕事を?」
「いいえ。心配しないで、トラブルなど起きていないわ。なにも」
「心配ない、心配いらない、大丈夫、私に任せて――また秘密ですか」
ミラは口をつぐんで、じっとイグネアを見つめた。正解ではなくとも、無難な選択なのだと信じていた。
こういうとき、イグネアは決まって遠くを見るような目をする。それから軽く息を吐いて、定型文のようにいつも同じことを言った。
「危なくなったら、頼ってくださいね」
そしてミラは決まって返事をしなかった。
二人きりの部屋は静まり返っている。イグネアは薄く笑みを浮かべている。ミラは何度か口を開こうとしたが、言葉にはならない。かといって、行っていいとも言えない。ひとつだけ共有しておかなくてはならない情報があった。
椅子に座って見つめ合っているだけの時間。沈黙を破ったのはイグネアだった。
「配慮は結構ですけれど、少しくらいお話してくれませんか? また無茶をしてると第六感が囁いています」
「そう滅多なことをしているわけではないし、知っているでしょう、あなたとは違って、簡単にこの左腕に飲まれたりはしないの」
「頑丈ですもんね、ミラは。無茶をしなきゃ平気、だから無茶を心配してるんですけどね。知ってますよ、また問題が増えたんだって」
ミラは僅かに目を見張った。ベンバドルが約束を破ったのかと考えた。どんな罰を与えようか、磔にするのもやぶさかではない。
「あの男に聞いたの」
イグネアは微笑みを崩さずに、小さく頭を振った。
「かまをかけるって言うんです、こういうの。でも、丸わかりですよ、だって今日は、眉根がいつもより五ミリ上を向いてる」
イグネアは声を出して笑い始めた。ミラは眉根をさすってみて、そこでようやく冗談だと理解した。いや、そうでもないのかもしれないが、ネアは笑っている。だから、そう真面目な発言でもないのだと、思う。確証はない、そのために一緒になって笑うこともできない。
上目遣いでイグネアはミラの瞳を見つめた。
「話してください。伝えることがあるから、出ていけって言わなかったんでしょう。楽しいおしゃべりがしたいわけじゃないって、知ってます。なんですか、子供たちが悪さでもしましたか? 黒い石を勝手に持ち出したとか」
ミラは首を左右に振って、イーディスのことを話した。ベンバドルと呪いに関しての事件は伏せて、生存の根拠だけを伝えた。予想もしていなかったという反応で、イグネアは口を抑えて驚きを顕にした。
いくらかの沈黙があった。少ししてからハッとして、イグネアはミラに尋ねた。
「本当ですか、あの子が、こっちに? グリムから単身で? あの戦火の中を、……生きていた、い、いま、今はどこに?」
「わからない、直に接触したわけではないの。それどころか、……いえ、とにかく、生存は九割方事実だと思っていい。焼け落ちる屋敷から脱出していた、ということよ」
「そうですか……イーディスが……」
イグネアの目元に光るものが見えた。「良かった……本当に良かった……」と鼻も目も赤くして両手で顔を覆った。その手の隙間から涙がとめどなくこぼれ落ちていった。
その様子を一歩引いたところから眺めていてミラは思う。
敵視されている可能性があっても、喜ばしいことには変わりない。
ネアの反応は普通だ。あの子は家族だった。大切な妹だった。感情的になって当然だ。なにも恥ずべきことじゃない、ないのに。
どうして。
どうして私は泣けないのだろう。




