第50章 平日の温度
月曜日の朝は、いつになく穏やかに始まった。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋を柔らかく照らしている。
目覚ましの音で目を覚まし、ゆっくりと体を起こす。
昨夜の美咲との時間が、まだ体のどこかに残っていた。
手の温もり。
公園のベンチで並んで座っていた沈黙。
「一緒にいてほしいです」と言ってくれた、小さな声。
キッチンでコーヒーを淹れる。
湯気を眺めながら、自然と口元が緩む。
スマホを確認すると、すでに美咲からメッセージが届いていた。
【美咲】
おはようございます。
昨日は本当にありがとうございました。
とても楽しかったです。
今日も一日、頑張りましょう。
簡潔な文章なのに、胸の奥が温かくなる。
私は「ああ、おはよう。こちらこそ。今日も気をつけて」と返信してから、身支度を整えた。
会社に着くと、いつもの朝の喧騒が迎えてくれた。
「おはようございます、山田さん」
美咲の声が聞こえる。
いつもの丁寧な挨拶。
でも、目が合った瞬間、彼女の頰がほんのり赤くなったのがわかった。
「おはよう、美咲」
名前を呼び捨てにしたのは、もう完全に自然なことになっていた。
彼女は小さく頷いて、席に着いた。
午前中は会議が続いた。
新プロジェクトの進捗確認と、次の案件の方向性についての話し合い。
集中しているつもりでも、時々美咲の方に視線が向いてしまう。
彼女も同じように、資料をまとめながらちらちらとこちらを見ているのがわかった。
昼休み、彼女がデスクに近づいてきた。
「山田さん……お昼、一緒にどうですか?」
「ああ、行こう」
社食で向かい合って座る。
以前より会話が自然で、沈黙も苦しくない。
仕事の話を少ししたあと、週末の話になった。
「昨日の公園、よかったですね」
「ああ。美咲といると、変に気負わなくていい」
彼女は俯きながら、小さく笑った。
その笑顔が、妙に愛おしく感じられる。
午後も仕事は続いた。
終業時間近くになると、彼女が再び近づいてきた。
「今日も……駅まで一緒に帰りますか?」
「ああ」
夜のオフィス街を並んで歩く。
秋の風が少し冷たく、街路樹の葉がさらさらと音を立てている。
並ぶ距離は、以前よりさらに自然になっていた。
肩が触れそうになるほど近くて、でも触れない絶妙な間隔。
途中、信号待ちのとき、美咲が小さく手を伸ばしてきた。
私は自然と、その手を握り返した。
掌から伝わる温度が、平日の夜道にそっと溶けていく。
「山田さん」
「ん?」
「私……最近、会社に来るのが前より楽しみなんです。
山田さんに会えるから、というのもあります」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「俺もだ。美咲がいてくれると、一日が少し違う」
彼女は俯きながら、小さく笑った。
その横顔が、街灯の光に照らされて柔らかい。
駅の改札前で、彼女は私の手を少しだけ強く握った。
「それでは……お疲れ様でした」
「ああ。気をつけて帰れよ」
美咲は何度も振り返りながら、改札を通っていった。
その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
マンションに帰ると、いつもの静かな部屋が待っていた。
コートを脱ぎ、ソファに座り、ビールを一本開ける。
テレビをつけたが、画面はあまり見ていなかった。
頭の中では、美咲との平日の距離感がゆっくりと再生されている。
手をつないで帰るという行為が、少しずつ「日常」になり始めている。
テーブルの上のノートを開き、今日の日付を書いてから、ゆっくりと記した。
『美咲との関係が、平日の中にもしっかり根を下ろし始めている。
手をつないで帰るのが、自然になってきた。
「会社に来るのが楽しみ」と言ってくれた言葉が、胸に残っている。
嬉しい。
怖い。
でも、大切にしたい。
俺は、この体で、この人生で、美咲と一緒に歩いていきたい。
そう、改めて思えた夜だった。』
ペンを置き、天井を見上げる。
遥香のことは、もうほとんど痛みとして感じなくなっていた。
ただ、静かな感謝だけが残っている。
私は深く息を吐き、静かに目を閉じた。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、美咲との平日の距離が、また少しだけ近くなりました……」
この新しい日常を、焦らずに、丁寧に育てていこう。
そう、心から思えた夜だった。




