第51章 少しだけ長い夜
水曜日の夜は、いつになく静かだった。
仕事が比較的早く終わり、オフィスを出たのは19時少し前。
美咲もほぼ同時に席を立ち、自然と二人でエレベーターに乗った。
「今日は早いですね」
美咲が少し嬉しそうに言った。
「ああ。珍しくスムーズに進んだ」
夜のオフィス街を並んで歩く。
秋の終わりを感じさせる風が、コートの裾を軽く揺らしている。
並ぶ距離は、もうほとんど意識しなくても自然に近くなっていた。
途中、信号待ちのとき、美咲が小さく手を伸ばしてきた。
私は迷わず、その手を握り返した。
掌から伝わる温度が、夜の空気の中でひときわ温かく感じられる。
「山田さん」
「ん?」
「最近……私、山田さんの隣にいるのが、すごく当たり前になってきてるんです。
会社でも、帰り道でも……」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「俺もだ。美咲がいないと、なんだか一日が物足りない気がする」
彼女は俯きながら、小さく笑った。
その横顔が、街灯の光に照らされて柔らかい。
駅の改札前まで来たとき、美咲は立ち止まった。
「あの……山田さん」
「どうした?」
「もしよかったら……今日、少しだけ寄り道しませんか?
近くに、夜でも空いてる静かなカフェがあるんです」
私は少し考えてから、頷いた。
「いいよ。行こう」
カフェは、駅から徒歩5分ほどの小さな店だった。
木の温もりを感じる内装で、照明は控えめに落とされている。
窓際の席に座り、私はブラックコーヒー、美咲はホットミルクティーを注文した。
カップが運ばれてくるまでの間、少し沈黙が流れた。
苦しい沈黙ではなかった。
むしろ、穏やかで、安心できる時間だった。
「山田さん」
美咲が静かに切り出した。
「私……山田さんのこと、本当に好きです。
事故の後から、ずっと。
仕事も、人としても……全部含めて」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
「美咲……」
「急に重い話をしてごめんなさい。
でも、こうして二人でいると、どうしても伝えたくなってしまって」
私は彼女の目を見た。
真剣で、少しだけ潤んでいる瞳。
「俺も、美咲のことが好きだ。
この体で、この人生で……お前と一緒にいたい」
美咲の頰に、涙が一筋伝った。
でも、彼女はすぐに拭って、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その後、しばらく二人で静かに過ごした。
特別な会話は続かなかったけれど、沈黙が心地よかった。
時々、視線が合っては、お互いに小さく笑う。
店を出たのは、21時を少し回った頃だった。
夜風が冷たくて、美咲が肩をすくめた。
私は自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「寒いだろ」
「……ありがとうございます」
並んで駅まで歩く。
掌から伝わる温度が、以前よりずっと自然に感じられた。
改札の前で、美咲は私の手を少しだけ強く握った。
「今日は……本当にありがとうございました。
とても、大切に感じる時間でした」
「こちらこそ。また誘うよ」
彼女は嬉しそうに何度も頷いたあと、改札を通っていった。
振り返るたびに手を振る姿が、いつまでも目に残った。
マンションに帰ったのは、21時半を過ぎていた。
部屋に入ると、いつもの静寂が迎えてくれる。
ジャケットを脱ぎ、ソファに深く沈み込む。
今日の美咲の涙と笑顔が、鮮明に残っている。
「一緒にいたい」と伝えた自分の言葉も、まだ耳の奥で響いている。
テーブルの上のノートを開き、今日の日付を書いてから、ゆっくりと記した。
『美咲と、少しだけ長い夜を過ごした。
カフェで、改めて気持ちを伝え合った。
彼女の涙が、嬉しくて、同時に責任を感じた。
この関係が、確実に深まっている。
嬉しい。
怖い。
でも、大切にしたい。
俺は、この体で、この人生で、美咲と一緒に歩いていきたい。
そう、改めて強く思えた夜だった。』
ペンを置き、天井を見上げる。
遥香のことは、もうほとんど痛みとして感じなくなっていた。
ただ、静かな感謝だけが残っている。
私は深く息を吐き、静かに目を閉じた。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、美咲と少しだけ長い夜を過ごして、気持ちがより確かに繋がりました……」
この新しい日常を、焦らずに、丁寧に育てていこう。
そう、心から思えた夜だった。




