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この体、男子ですけど何か?  作者: 蒼狐


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第49章 土曜日の約束

土曜日の朝は、いつになく静かで、穏やかだった。


カーテンの隙間から差し込む光が、部屋を柔らかく照らしている。

目覚ましをかけていなかった私は、自然と目が覚めた。

昨夜の雨は完全に上がり、空は高い青さを取り戻している。


今日は、美咲と約束した日だ。

雨の夜に「また会えますか?」と聞かれ、こちらから「俺から誘う」と答えた、その約束の日。


ベッドから起き上がり、キッチンでコーヒーを淹れる。

湯気を眺めながら、今日の予定を頭の中で確認する。

美咲が「ゆっくり話したい」と言っていたので、派手な場所ではなく、落ち着いた場所を選んだ。

駅から少し離れた、古い洋館を改装したカフェ兼ギャラリー。

昼間は静かで、午後からは軽い食事もできる店だ。


鏡の前で身支度を整える。

白いシャツに、ダークブラウンのパンツ。

薄いベージュのジャケットを羽織る。

ネクタイはしない。

休日らしい、でもきちんとした印象になるように気を配った。


腕時計をはめ、深呼吸をしてから家を出た。


待ち合わせ場所に着いたのは、約束の時間ちょうどだった。

美咲はすでに小さなベンチに座って待っていた。

淡いラベンダー色のブラウスに、ベージュのロングスカート。

髪をゆるく一つにまとめ、耳元に小さなピアスをつけている。

会社で見る姿とは違う、柔らかくて少し華やかな雰囲気だった。


「山田さん……おはようございます」


「おはよう。待たせたか?」


「いえ、ちょうどいい時間です」


彼女は立ち上がり、少し緊張したように微笑んだ。

その笑顔を見ていると、胸の奥が自然と温かくなる。


店の中に入り、窓際の席に通された。

木の床と白い壁、控えめな照明。

ジャズのBGMが低く流れている。

注文は、私がホットコーヒーとサンドイッチ、美咲はチャイとフルーツのタルト。


料理が運ばれてくるまでの間、自然と会話が始まった。


「雨の日の夜、ありがとうございました」


美咲が少し照れくさそうに言った。


「傘、小さかったのに、ずっと気を使ってくれて……」


「気にしなくていい。むしろ、俺の方が助かったよ」


「本当ですか?」


「ああ。美咲がいなかったら、ずぶ濡れだった」


彼女は小さく笑い、頰を赤らめた。

その仕草が、妙に愛おしく感じられる。


食事が進むにつれて、会話は仕事の話から、少しずつ私的なものに移っていった。

最近観た映画のこと。

子どもの頃に好きだった本のこと。

休日に何をして過ごすのが好きか。


美咲は意外と昔話を聞くのが好きらしく、こちらの話に真剣に耳を傾けてくれる。

私は悠真の記憶を頼りに答えつつ、時々、愛子としての感覚が混ざるのを意識しながら話した。


「山田さんって、意外と細かいところに気がつきますね」


「そうか?」


「はい。雨の夜も、ずっと私の方に傘を傾けてくれてました。

あのとき、すごく……嬉しかったです」


その言葉に、私はフォークを置く手が少し止まった。


「……そう言ってもらえると、誘った甲斐がある」


美咲は俯きながら、小さく笑った。

その横顔が、窓からの光に照らされて柔らかい。


食後、店を出て並んで歩き始めた。

秋の陽射しは穏やかで、風が少し冷たい。

自然と、手が重なった。

美咲の小さな手が、私の大きな手に包まれる。

指が絡まる感触が、以前よりずっと自然だった。


「寒い?」


「大丈夫です。山田さんの手が温かいので」


彼女がそう言った瞬間、胸の奥が熱くなった。

男の体で、誰かに「温かい」と言われる感覚。

それが、こんなにも嬉しいものだとは、思ってもみなかった。


公園のベンチに座り、しばらく無言で景色を眺めた。

子どもの笑い声や、遠くで犬の吠える声が聞こえる。

沈黙が苦しくない。

むしろ、穏やかで、安心できる時間だった。


「美咲」


「はい」


「俺、まだ不器用だと思う。

付き合うっていうのも、正直、初めてに近い感覚で……」


彼女はゆっくりとこちらを見た。


「大丈夫です。

私も、山田さんとなら、ゆっくりでいいです。

急がなくていいから……一緒にいてほしいです」


その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。


私は自然と、彼女の手を少し強く握った。

美咲は驚いたように目を見開いたあと、そっと握り返してきた。


夕方近くまで、二人で公園を歩いた。

特別な出来事は何もなかった。

ただ、並んで歩き、時々手をつなぎ、時々沈黙を共有する。

それだけで、十分に特別な時間だった。


駅まで送る道中、美咲は私の腕に軽く寄り添ってきた。

その重みが、男の体を通じてはっきりと伝わってくる。


改札の前で、彼女は私の手を少しだけ強く握った。


「今日は……本当にありがとうございました。

とても、楽しかったです」


「こちらこそ。また誘うよ」


「はい。待ってます」


美咲は嬉しそうに何度も頷いたあと、改札を通っていった。

振り返るたびに手を振る姿が、いつまでも目に残った。


マンションに帰ったのは、夕方の6時を過ぎた頃だった。

部屋に入ると、いつもの静寂が迎えてくれる。

ジャケットを脱ぎ、ソファに深く沈み込む。


今日の美咲の笑顔が、鮮明に残っている。

手の温もりも、まだ掌に残っている気がした。


テーブルの上のノートを開き、今日の日付を書いてから、ゆっくりと記した。


『美咲と、約束した土曜日を過ごした。

特別なことは何もなかった。

ただ、並んで歩き、手をつなぎ、話をした。

それだけで、胸がいっぱいになった。


この関係が、少しずつ「日常」になっていく。

嬉しい。

怖い。

でも、大切にしたい。


俺は、この体で、この人生で、美咲と一緒に歩いていきたい。

そう、はっきりと思えた日だった。』


ペンを置き、天井を見上げる。


遥香のことは、もうほとんど痛みとして感じなくなっていた。

ただ、静かな感謝だけが残っている。


私は深く息を吐き、静かに目を閉じた。


「この体、男子ですけど何か?

今日は、美咲と過ごした土曜日が、とても温かくて……大切に感じました」


この新しい日常を、焦らずに、丁寧に育てていこう。

そう、心から思えた夜だった。

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