第48章 雨の夜
木曜日の夕方、空の色が急に変わった。
午後の会議が終わった頃から、窓の外は薄暗くなり、雲が低く垂れ込めていた。
仕事を終えてデスクを離れたのは、19時を少し回った頃だ。
オフィスの出口で、美咲とほぼ同時に顔を合わせた。
「山田さん……雨、降ってますね」
彼女が少し困ったように空を見上げる。
細い雨が、すでにアスファルトを湿らせ始めていた。
「傘、持ってる?」
「折りたたみがあります。山田さんは?」
「持ってない。朝は晴れてたから」
美咲は一瞬だけ迷ったあと、小さく微笑んで傘を差し出した。
「一緒に使いますか? 少し小さいですけど……」
淡いブルーの折りたたみ傘。
二人で入るには、明らかに心許ないサイズだった。
「悪いな」
「いえ。むしろ……嬉しいです」
彼女がそう言った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
夜のオフィス街を、一つの傘の下で歩き出す。
肩が自然と触れ合う距離になる。
美咲の髪から、ほのかに甘いシャンプーの匂いがした。
雨粒が傘を叩く音が、規則正しく響いている。
最初のうちは、ほとんど会話がなかった。
ただ、並んで歩くこと自体が、すでに特別な時間になっていた。
信号待ちのとき、美咲が小さく声を落として言った。
「雨の日って、なんだか……いつもと違う感じがしますね」
「ああ。静かになる気がする」
「山田さんとこうして歩くの、初めてです。
雨の中で」
彼女の声が、傘の内側で少しだけ響く。
私は自分のジャケットの袖を寄せて、彼女の肩に雨がかからないようにした。
「ありがとう……ございます」
美咲が小さく礼を言った。
その声が、いつもより近くて、柔らかかった。
信号が青に変わると、再び歩き出す。
雨は徐々に強くなり、足元の水たまりが街灯の光を反射していた。
美咲の小さな体が、私の腕に少し寄り添ってくる。
その重みが、男の体を通じてはっきりと伝わってくる。
「寒い? もっと寄ってもいいぞ」
「……はい」
彼女がさらに半歩、近づいてきた。
肩が完全に触れ合う。
体温が、ジャケット越しにゆっくりと混ざり合う感覚があった。
駅までの道のりは、いつもより長く感じた。
でも、嫌な長さではなかった。
むしろ、この時間がもう少し続けばいいのに、とさえ思った。
改札の手前で立ち止まったとき、美咲は傘を私の方に傾けたまま、上を向いた。
「山田さん……今日も、ありがとうございました」
「こちらこそ。濡れてないか?」
「大丈夫です。山田さんがずっと気を使ってくれていたから」
彼女は少しだけ躊躇するようにしてから、私の腕に軽く触れた。
指先が、湿ったジャケットの上から熱を伝えてくる。
「あの……今度の土曜日、もしよかったら……また会えますか?
少しだけ、ゆっくり話したいなって」
私は一瞬だけ間を置いてから、頷いた。
「いいよ。俺から誘う。
場所は任せてくれてもいいし、美咲が決めてくれてもいい」
美咲の顔が、ぱっと明るくなった。
雨に濡れた街灯の光が、彼女の頰を柔らかく照らしている。
「本当ですか? ……よかった」
彼女は嬉しそうに何度も頷いたあと、少しだけ声を落とした。
「私……山田さんといると、雨の日でも温かいです」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
「俺もだ。美咲がいてくれると、変に気負わなくていい」
美咲は小さく微笑み、改札を通る前に一度だけ振り返った。
「それでは……お疲れ様でした。
気をつけて帰ってくださいね」
「ああ。美咲もな」
彼女の後ろ姿が、人混みの中に消えていくまで、私はしばらくその場に立っていた。
マンションに帰ったのは、20時を少し回った頃だった。
コートを脱ぎ、髪に付いた雨粒をタオルで丁寧に拭く。
リビングの電気を点け、ソファに深く腰を下ろす。
部屋の中は静かで、窓の外ではまだ雨音が続いている。
テーブルの上に置いてあったノートを開き、今日の日付を書いてから、ゆっくりと書き始めた。
『雨の夜を、美咲と一つの傘で歩いた。
肩が触れ、体温が伝わり、彼女の小さな声がすぐそばで聞こえた。
「雨の日でも温かい」と言ってくれた言葉が、まだ耳に残っている。
この関係が、少しずつ「日常」になっていくのがわかる。
嬉しい。
でも、同時に少し怖い。
大切にしすぎて、壊してしまうんじゃないか、という不安もある。
それでも——
このまま、焦らずに進みたい。
美咲のペースに合わせて、俺のペースも大切にしながら。』
ペンを置き、天井を見上げる。
美咲のシャンプーの匂いが、まだジャケットに僅かに残っている気がした。
遥香のことは、もうほとんど痛みとして感じなくなっていた。
ただ、静かな感謝と、「あのとききちんと別れを告げられてよかった」という安堵だけが残っている。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、雨の夜に、美咲との距離がまた一つ、確かに近くなりました……」
雨音をBGMのように聞きながら、私は静かに目を閉じた。
この新しい日常を、晴れの日も雨の日も含めて、大切に生きていこう。
そう、心から思えた夜だった。




