第46章 夕食の席で
土曜日の夕方は、薄い雲がかかった空の下で始まっていた。
今日は美咲と約束した、初めての夕食の日だ。
彼女が「少しだけ、ゆっくり話したい」と誘ってくれた時間。
これまでカフェや美術館、公園では会っていたが、夜の食事は初めてだった。
鏡の前で身支度を整える。
ダークグレーのシャツに黒のパンツ、薄いジャケット。
少しだけ気合いを入れた服装に、自分でも少し緊張しているのがわかった。
腕時計をはめ、深呼吸をしてから家を出た。
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待ち合わせ場所は、駅から少し離れた静かなレストランだった。
木の温もりを感じる店内で、照明は控えめに落とされている。
美咲はすでに席に座って待っていた。
濃いグリーンのワンピースに、薄いカーディガン。
いつもの私服より少しだけ改まった雰囲気が漂っている。
「山田さん……来てくれてありがとうございます」
「誘ってくれてありがとう。いい店だな」
席に着くと、彼女は少し緊張したように微笑んだ。
メニューを見ながら、自然と会話が始まる。
私は赤ワイン、美咲は白ワインを注文した。
「実は……こういう場所、あまり慣れてなくて」
美咲が少し恥ずかしそうに言った。
「俺もだ。こうして二人で夜に食事をするのは、初めてに近い」
その言葉に、彼女の頰がほんのり赤くなった。
料理が運ばれてくるまでの間、仕事の話はほとんどしなかった。
最近読んだ本のこと、子どもの頃の話、休日の過ごし方。
美咲は意外と聞き上手で、こちらの話に真剣に耳を傾けてくれる。
「山田さんって、意外と物静かですね。
会社ではもっと凛としてるのに、こうしてると……優しい感じがします」
「家だと、こうなんだ」
「……好きです。その感じも」
彼女が小さくそう呟いた瞬間、胸がざわついた。
食事が進むにつれて、空気が少しずつ柔らかくなっていった。
グラスを傾けながら、視線が自然と合う。
以前のようなぎこちなさは、ほとんど感じられなかった。
食後、店を出て夜風に当たった。
「寒くないか?」
「大丈夫です。少し気持ちいいです」
並んで歩きながら、自然と手が重なった。
美咲の小さな手が、私の大きな手に包まれる。
指が絡まる感触が、以前より自然だった。
駅まで歩く間、ほとんど会話はなかった。
それでも、掌から伝わる温度が、確かにそこにあった。
改札の前で、美咲は私の手を少しだけ強く握った。
「今日は……本当にありがとうございました。
とても楽しかったです」
「こちらこそ。また誘ってくれ」
彼女は嬉しそうに何度も頷いたあと、少しだけ近づいてきた。
「あの……山田さん」
「ん?」
「私、山田さんといると、すごく安心します。
これからも……よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ」
美咲は小さく頭を下げ、改札を通っていった。
振り返るたびに手を振る姿が、いつまでも目に残った。
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マンションに帰ったのは、夜9時を過ぎていた。
部屋に入ると、いつもの静寂が迎えてくれる。
ジャケットを脱ぎ、ソファに深く沈み込む。
今日の美咲の笑顔が、鮮明に残っている。
手の温もりも、まだ掌に残っている気がした。
テーブルの上のノートを開き、今日の日付を書いてから、ゆっくりと記した。
『美咲と、初めての夕食を共にした。
夜の時間が、少しだけ特別だった。
距離が、また縮まった。
嬉しい。
このまま、焦らずに大切にしていこう。』
ペンを置き、天井を見上げる。
遥香のことは、まだ完全に消えていない。
でも、今日の時間は、確かに「前に進んでいる」感覚があった。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、美咲と夜の時間を過ごして、少しだけ恋人らしい距離を感じました……」
私は深く息を吐き、静かに目を閉じた。
この新しい関係を、大切に育てていこう。
そう思えた、穏やかな夜だった。




