第44章 彼女の街で
土曜日の午後は、少し肌寒い空が広がっていた。
今日は美咲の家の近くのカフェに行く約束の日だ。
彼女が「前に話した、好きなところなんです」と誘ってくれた場所。
初めて彼女の生活圏に足を踏み入れることに、軽い緊張があった。
身支度を整え、鏡の前で最終確認をする。
ダークネイビーのシャツにグレーのパンツ。
前回より少し落ち着いた印象になるように選んだ。
腕時計をはめ、深呼吸をしてから家を出た。
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待ち合わせ場所は、住宅街の中にある小さなカフェだった。
駅から歩いて7分ほど。
古びた民家を改装したような外観で、木の温もりが感じられる。
窓辺には観葉植物が置かれ、店内からは低いジャズが漏れている。
美咲はすでに席に座って待っていた。
ベージュのニットに、ロングスカート。
いつもの会社姿とは違う、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「山田さん……来てくれてありがとうございます」
「誘ってくれてありがとう。いい店だな」
席に着くと、彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。
「実は学生の頃から、よく来てるんです。
一人で本を読んだり、考え事をしたり……」
メニューを見ながら、自然と会話が弾む。
私はホットコーヒー、美咲はチャイを注文した。
窓の外では、時折通行人が通り過ぎていく。
住宅街らしい穏やかな時間が流れている。
「美咲の家は近いのか?」
「はい。歩いて5分くらいです。
だから、ここに来ると少し落ち着くんです」
彼女の声が柔らかくて、胸の奥が温かくなる。
コーヒーが運ばれてきたあと、少し沈黙が流れた。
苦しい沈黙ではなかった。
むしろ、穏やかで、安心できる時間だった。
「山田さん」
「ん?」
「私……最近、本当に幸せです。
山田さんとこうして過ごす時間が、すごく大事になってきてます」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。
「俺もだ。
美咲といると、変に気負わなくていい。
自然体でいられる」
美咲は俯きながら、小さく笑った。
その横顔が、窓からの光に照らされて柔らかい。
店を出たあと、少しだけ近くを歩くことにした。
住宅街の路地は静かで、落ち葉が風に舞っている。
「寒い?」
「少しだけ……」
私は自分のコートの袖を少し寄せ、彼女の腕に軽く触れた。
美咲は驚いたようにこちらを見たあと、そっと身を寄せてきた。
その距離が、以前より自然だった。
駅まで送る道中、ほとんど会話はなかった。
それでも、掌から伝わる温度が、確かにそこにあった。
改札の前で、美咲は私の手を少しだけ強く握った。
「今日は……本当にありがとうございました」
「こちらこそ。また来たいな、この店」
彼女は嬉しそうに何度も頷いた。
「はい。また……お願いします」
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マンションに帰ったのは、夕方近くだった。
部屋に入ると、いつもの静寂が迎えてくれる。
コートを脱ぎ、ソファに深く沈み込む。
今日の美咲の笑顔が、鮮明に残っている。
彼女の生活圏に足を踏み入れたことが、少し特別な意味を持って感じられた。
テーブルの上のノートを開き、今日の日付を書いてから、ゆっくりと記した。
『美咲の街に行った。
彼女の日常の一端に触れた気がする。
距離が、また少し縮まった。
嬉しい。
このまま、焦らずに大切にしていこう。』
ペンを置き、天井を見上げる。
遥香のことは、まだ完全に消えていない。
でも、今日の時間は、確かに「前に進んでいる」感覚があった。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、美咲の日常に少しだけ触れられて、胸が温かくなりました……」
私は深く息を吐き、静かに目を閉じた。
この新しい関係を、大切に育てていこう。
そう思えた、穏やかな夜だった。




