第42章 平日の温度
月曜日の朝は、いつもより少し軽い気持ちで始まった。
目覚ましの音で目を覚まし、カーテンを開ける。
薄い雲がかかった空の下、街がゆっくりと動き始めている。
昨日の美咲との時間が、まだ体のどこかに残っていた。
手をつないだ感触。
彼女が「手、つなでもいいですか?」と聞いてきたときの小さな声。
改札の前で何度も振り返っていた後ろ姿。
キッチンでコーヒーを淹れながら、自然と口元が緩む。
スマホを確認すると、すでに美咲からメッセージが届いていた。
【美咲】
おはようございます。
昨日はありがとうございました。
今日も一日、頑張りましょう。
簡潔な文章なのに、なぜか胸が温かい。
私は「ああ、おはよう。こちらこそ」と返信してから、身支度を整えた。
---
会社に着くと、いつもの朝の喧騒が迎えてくれた。
「おはようございます、山田さん」
美咲の声が聞こえる。
いつもの丁寧な挨拶。
でも、目が合った瞬間、彼女の頰がほんのり赤くなったのがわかった。
「おはよう、美咲」
名前を呼び捨てにしたのは、もう自然なことになりつつある。
彼女は小さく頷いて、席に着いた。
午前中は会議が続いた。
新プロジェクトの進捗確認と、次の案件の方向性についての話し合い。
集中しているつもりでも、時々美咲の方に視線が向いてしまう。
彼女も同じように、資料をまとめながらちらちらとこちらを見ているのがわかった。
昼休み、彼女がデスクに近づいてきた。
「山田さん……お昼、一緒にどうですか?」
「ああ、行こう」
社食で向かい合って座る。
以前より会話が自然で、沈黙も苦しくない。
仕事の話を少ししたあと、週末の話になった。
「昨日の美術館、よかったですね」
「ああ。美咲が選んでくれたおかげだ」
彼女は俯きながら、小さく笑った。
「私……また誘ってもいいですか?」
「もちろん。むしろ、次は俺から誘うよ」
その言葉に、美咲の目が少し輝いた。
午後も仕事は続いた。
終業時間近くになると、彼女が再び近づいてきた。
「今日も……駅まで一緒に帰りますか?」
「ああ」
夜のオフィス街を並んで歩く。
前回より、さらに距離が近い。
肩が触れそうになるほど近くて、でも触れない絶妙な間隔。
「山田さん」
「ん?」
「私、最近すごく幸せです。
山田さんと話してるだけで、なんだか安心するんです」
その言葉が、胸の奥に温かく沈んだ。
「俺もだ。美咲がいてくれると、変に気負わなくていい」
駅の改札前で、彼女は小さく頭を下げた。
「それでは……お疲れ様でした」
「ああ。気をつけて帰れよ」
美咲は何度も振り返りながら、改札を通っていった。
---
マンションに帰ると、いつもの静かな部屋が待っていた。
コートを脱ぎ、ソファに座り、ビールを一本開ける。
テレビをつけたが、画面はあまり見ていなかった。
頭の中では、美咲との時間がゆっくりと再生されている。
平日のこの距離感が、少しずつ「日常」になり始めている。
ふと、遥香のことが頭をよぎった。
彼女からは、その後も連絡は来ていない。
それがかえって、彼女の潔さを感じさせた。
テーブルの上のノートを開き、今日の日付を書いてから、短く記した。
『美咲との関係が、平日の中にも浸透してきている。
嬉しい。
でも、遥香のことはまだ完全に消えていない。
それでも、このまま前に進む。』
ペンを置き、天井を見上げる。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、美咲との距離が、少しだけ日常になってきました……」
私は深く息を吐き、静かに目を閉じた。
この新しい温度を、大切に感じていこう。
そう思えた、穏やかな夜だった。




