第35章 選ぶということ
日曜の朝は、静かに始まった。
目覚ましをかけていなかった私は、自然と目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋を柔らかく照らしている。
昨日、美咲と遥香の両方に向き合った疲れが、体のどこかに残っている気がした。
それでも、不思議と頭はクリアだった。
キッチンでコーヒーを淹れ、窓辺に立つ。
湯気を眺めながら、昨夜ノートに書いた言葉を思い出す。
『もう、逃げるのはやめよう。
この体で、この人生で、ちゃんと生きる。
そして、誰かを本気で選ぶ』
コーヒーを一口飲み、ソファに座った。
美咲の顔が浮かぶ。
残業の夜に温かい飲み物を置いてくれた手。
「私はここにいますから」と微笑んだ横顔。
公園で「好きです」と伝えてくれたときの、少し震える声。
彼女は、事故の後の私を、何も知らないまま支えてくれた。
山田悠真としての私を、純粋に見てくれている。
次に、遥香の顔が浮かぶ。
過去を共有し、事故の前の私を知っている人。
静かに「待ってる」と言ってくれた眼差し。
成熟した理解と、どこか寂しげな優しさ。
どちらも大切だ。
どちらも、私を真剣に想ってくれている。
でも——
私は、もう両方を中途半端に抱えることはできない。
テーブルの上のノートを開き、ペンを取った。
しばらく考えたあと、ゆっくりと書き始めた。
『私は、美咲を選ぶ。
遥香のことは、今でも大切だ。
過去を共有してくれたこと、事故の後も気にかけてくれたこと、全部忘れない。
でも、今の私は、事故の後の「山田悠真」として生きている。
その新しい自分を、真っ直ぐに見てくれているのが、美咲だ。
美咲は、私の迷いも、不完全さも、そのまま受け止めてくれた。
彼女の優しさは、押し付けがましくなくて、でも確かにそこにある。
私は、その隣で生きていきたい。』
書き終えたあと、ペンを置き、深く息を吐いた。
胸の奥が、少し熱い。
決めたことへの安堵と、遥香を傷つけるかもしれないことへの痛みが、同時に存在している。
でも、逃げない。
私はスマホを手に取り、まず遥香にメッセージを送った。
【メッセージ】
遥香、昨日は話を聞いてくれてありがとう。
俺は、美咲と向き合っていこうと思う。
お前のことは、今でも大切だ。
本当に、ありがとう。
そして、ごめん。
送信ボタンを押した瞬間、胸がきゅっと締まった。
既読がつくまで、しばらく画面を見つめていた。
少しして、返信が来た。
【遥香】
わかった。
悠真が自分で選んだ道なら、私は尊重する。
元気でね。
本当に、ありがとう。
短い文章だった。
でも、その言葉の端々に、遥香らしい強さと優しさが滲んでいた。
私は画面を閉じ、次に美咲の連絡先を開いた。
指が、少しだけ震える。
【メッセージ】
美咲、今日の午後、時間ある?
ちゃんと話したい。
すぐに返信が来た。
【美咲】
はい! あります。
どこがいいですか?
【私】
前と同じ公園で。
2時に。
【美咲】
わかりました。
行きます。
スマホを置き、私は窓の外を見た。
秋の空は高くて、澄んでいる。
「……決めた」
小さく呟くと、自分の低い声が部屋に響いた。
この体で、この人生で、誰かを本気で選ぶ。
それが、どれだけ重いことなのか、今になってようやく実感している。
でも、もう迷わない。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、ようやく自分の気持ちを決めました……」
午後の公園で、美咲に伝える言葉を、静かに心の中で繰り返した。




