第33章 一人の夜に
遥香と別れた夜から、さらに二日が過ぎた。
その間、私は仕事をこなしながらも、ほとんど人と深く話さなかった。
美咲とはオフィスで顔を合わせるが、彼女もあえて距離を保ってくれているようだった。
遥香からも、追加の連絡は来なかった。
二人とも、私の答えを静かに待っている。
金曜の夜、最終的な資料提出を終えてマンションに戻ったのは、すでに23時を回っていた。
ドアを開けた瞬間、いつもの静寂が押し寄せてきた。
靴を脱ぎ、コートをハンガーにかけ、リビングの電気を点ける。
部屋は綺麗に片付いているのに、妙に広く感じる。
冷蔵庫を開け、水を一杯飲んだ。
ビールに手を伸ばそうとして、やめた。
今夜は、ちゃんと自分と向き合いたかった。
ソファに深く腰を下ろし、目を閉じる。
頭の中に、これまでの出来事が次々と蘇ってきた。
事故で目が覚めた病院の天井。
初めて鏡に映った男の顔。
スーツを着たときの違和感。
初めての出勤。
ジムでの汗。
残業の夜。
美咲が置いてくれた温かいコーヒー。
遥香の静かな瞳。
プレゼンを成功させたときの達成感。
そして、美咲の「好きです」という言葉。
全部が、一つの人生としてつながっている。
「俺は……山田悠真として生きている」
小さく呟くと、自分の低い声が部屋に響いた。
最初は拒絶していたこの体も、今では自然に動かせるようになった。
力が強く、肩幅が広く、声が低い。
男として扱われ、男として期待され、男として生きている。
でも、心の奥には、今でも佐藤愛子がいる。
17歳の女子高生だった頃の感覚。
母親の声。
制服の感触。
友達との馬鹿話。
「可愛い」と言われていた頃の自分。
それが完全に消えたわけではない。
ただ、徐々に「過去の自分」として整理されつつある。
テーブルの上に置いてあったノートを開いた。
以前から時々書いていた、自分の気持ちを整理するためのメモだ。
今日は、少し長い文章を書いた。
『私は今、山田悠真として生きている。
この体で、仕事をして、人と関わり、恋に揺れ、悩み、少しずつ前に進んでいる。
美咲の優しさも、遥香の深さも、どちらも本物だ。
でも、どちらを選ぶかより先に、自分がこの人生をどう生きるかを決めなければいけない。
もう、元の体には戻れない。
愛子としての人生は、終わった。
だからこそ、この体で、この人生を、ちゃんと自分のものにしなければならない。』
書き終えたあと、ペンを置き、しばらく天井を見つめた。
涙が、少しだけ目尻に滲んだ。
男の体で泣くのは、今でも少し変な感じがする。
声が低くて、手が大きくて、涙を拭う動作さえ違う。
でも、今夜は無理に抑えなかった。
「……お母さん、私、頑張ってるよ」
小さく呟くと、胸の奥が少し軽くなった気がした。
夜が更けていく。
時計は午前2時を回っていた。
私はベッドに横になり、天井の暗い空間を見つめた。
美咲の笑顔。
遥香の静かな眼差し。
どちらも大切だ。
でも、このまま両方を中途半端に抱え続けることは、もうできない。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、ようやく自分自身と向き合えた気がします……」
答えは、まだ完全には出ていない。
それでも、迷いの霧が少しずつ晴れ始めていた。
私は深く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
この先、どんな選択をするにせよ——
この人生を、逃げずに生きていこう。
そう、静かに決意した夜だった。




