第32章 遥香との夜
美咲の告白から、ちょうど四日が経っていた。
その間、私は仕事をこなしながらも、頭の中はずっとぐるぐると回っていた。
美咲の真っ直ぐな瞳。
彼女が「好きです」と言ったときの少し震える声。
あの公園のベンチで感じた、温かくて痛いような気持ち。
そして、もう一人の女性——遥香の存在が、常に頭の片隅にあった。
木曜の夜、仕事を終えてマンションに戻った直後、スマホが振動した。
画面に表示された名前を見て、一瞬、息を止めた。
**藤崎遥香**
【メッセージ】
悠真、今、時間ある?
急で悪いんだけど、今夜会えないかな。
話したいことがあるの。
私はしばらく画面を見つめたあと、ゆっくりと返信した。
【返信】
大丈夫。どこがいい?
すぐに返事が来た。
【遥香】
以前よく行った、駅前のイタリアン。
8時に予約しておくね。
---
夜8時少し前、私は店の前に立っていた。
秋の夜風が肌に心地よい。
スーツの上にコートを羽織り、深呼吸をしてからドアを開けた。
店内は落ち着いた照明で、低いピアノのメロディが流れている。
遥香は奥のテーブルですでに待っていた。
彼女は黒いシンプルなワンピースを着ていて、長い髪を肩の後ろに流している。
化粧は控えめで、でもそれがかえって彼女の美しさを引き立てていた。
「悠真、来てくれてありがとう」
「急に呼び出して悪かったな。体、大丈夫か?」
「うん。あなたこそ、最近忙しそうだったから」
席に着くと、すぐにワインが運ばれてきた。
遥香は赤ワイン、私は白を注文した。
最初の会話は、比較的穏やかだった。
「仕事、順調みたいね。
プレゼン成功したって聞いたよ」
「ああ、なんとか。チームのみんなのおかげだ」
「悠真らしい。
いつも一人で抱え込まないで、周りを頼れるようになったのは、良い変化だと思う」
彼女の言葉に、私は少し苦笑した。
食事が進むにつれて、空気が徐々に変わっていった。
遥香がグラスを置き、静かにこちらを見つめた。
「悠真……正直に聞きたいの。
今、私のことはどう思ってる?」
直球だった。
フォークを持つ手が、わずかに止まった。
「遥香……」
「美咲さん、という子がいるんでしょう?
会社で、あなたをすごく支えてくれている子」
私は言葉に詰まった。
遥香は怒りを表すでもなく、ただ静かに微笑んでいた。
でもその目は、はっきりと寂しさを帯びていた。
「勘違いかもしれない。
でも、悠真が最近、時々違う顔をするようになった気がするの。
前の悠真じゃなくて……もっと優しくて、でもどこか迷っているような顔」
胸が痛んだ。
美咲の顔が、鮮明に浮かぶ。
残業の夜に温かいコーヒーを置いてくれた手。
「私はここにいますから」と微笑んだ横顔。
それに対して、遥香は——
過去を知っている。
山田悠真としての私を、事故の前から知っている。
「遥香、俺はまだ答えを出せていない。
お前のことも、美咲のことも、大事だと思ってる。
でも、自分自身がまだ整理できてないんだ」
遥香はワインを一口飲んで、静かに頷いた。
「わかってる。
急かしたくない。
ただ、悠真が一人で抱え込まないでほしいだけ」
彼女は少し目を伏せた。
「別れた後、私はずっと後悔してた。
もっと悠真の負担を減らしてあげればよかったって。
事故のニュースを聞いたとき、本当に怖かった。
もう二度と会えないかもしれないって思った」
その言葉が、胸の奥に深く沈んでいく。
「遥香……ごめん」
「謝らないで。
悠真は悪くない。
ただ、私は……まだ諦めきれないだけ」
食事が終わった後、店を出て夜の街を少し歩いた。
街灯の光が、アスファルトに長い影を落としている。
遥香が私の袖を、軽く引いた。
「悠真……もし、もう一度やり直せるなら。
私は待ってる。
でも、悠真が自分で選んだ道を、私は尊重する」
その声は、優しくて、でもどこか決意を帯びていた。
別れ際、彼女は私の胸に軽く額を寄せた。
ほんの数秒だけ。
彼女の香水の匂いが、静かに残った。
「元気でね、悠真」
「……ああ」
タクシーに乗り込む彼女の背中を見送りながら、私は立ち尽くしていた。
---
マンションに帰ったのは、夜11時を過ぎていた。
コートを脱ぎ、ソファに深く沈み込む。
部屋は静かで、冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえる。
テーブルの上に、空のグラスを置いた。
美咲の告白。
遥香の覚悟。
そして、自分自身がまだ「山田悠真」として完全に生ききれていないこと。
全部が同時に押し寄せてきて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「俺は……誰を選ぶべきなんだ」
小さく呟くと、自分の低い声が部屋に響いた。
17歳の女子高生だった頃の自分なら、こんな複雑な恋愛に巻き込まれることなど想像もしなかった。
好きな人ができたら、ただ純粋に嬉しくて、どうしようかと浮かれていただけだ。
でも今は違う。
男の体で、二人の女性の本気の想いを受け止める立場にいる。
私は天井を見上げた。
「この体、男子ですけど何か?
今日は、遥香に本気で向き合われて、いよいよ答えを出さないといけない気がしてきました……」
目を閉じると、美咲の笑顔と遥香の瞳が、交互に浮かんでくる。
そろそろ、決断の時が近づいている。
このまま迷い続けていては、両方を傷つけてしまう。
私は深く息を吐いた。
この先、どうするべきなのか。
自分自身と、本気で向き合わなければならない夜だった。




