第8話:パリに来た王
注記: 本作は史実をもとにした歴史フィクションです。
人物の会話、心理描写、一部の出来事の流れには創作を含みます。
史実そのものの解説は、本文最後の「櫻未來の歴史メモ」で補足します。
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今回の登場人物
ルイーズ:テュイルリー宮殿で働く侍女。王家を近くで見ながら、民衆の視線も感じている。
マドレーヌ:パン屋へ通う少女。王が近くに来ても生活が変わらないことに戸惑う。
ジャン・ボーモン:パン屋。王がパリに来ても粉袋の底は変わらないと知っている。
マルセル:兵士。王を守るのか、王を見張るのか、自分の任務がわからなくなっている。
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1789年秋から1790年ごろ、パリのテュイルリー宮殿周辺。
ヴェルサイユからパリへ移った王家は、民衆の近くに置かれることになった。
だが王が近くに来ても、パン屋の列と生活の不安はすぐには変わらなかった。
「王様が近くにいるって、本当?」
マドレーヌがパン屋の列で聞いた。
ジャンは焼き板を動かしながら答える。
「宮殿にいる」
「近い?」
「歩けば行ける」
「じゃあ、頼みに行ける?」
テレーズが列の後ろから言った。
「頼みに行ったから、ここへ来たんだよ」
「でも、パンは増えてない」
ジャンは粉袋を持ち上げた。
「王がパリに来ても、麦が袋に飛び込んでくるわけじゃない」
マドレーヌは宮殿の方を見た。
「近いのに、遠いままなんだ」
テュイルリー宮殿では、ルイーズが窓の隙間から外を見ていた。
庭には人々がいる。
散歩をしている者。
見張るように立つ者。
ただ王家を見たい者。
どの目も、ヴェルサイユの庭で見た目とは違っていた。
同僚の侍女が小声で言う。
「ここは宮殿なのに、まるで店先みたい」
「店先?」
「誰もが、中に何があるのか見たがっている」
ルイーズは返した。
「見たいだけなら、まだいいのですが」
廊下の先で、国王の足音がした。
重くはない。
疲れた人の足音だった。
ルイーズは一礼する。
王は彼女を見たのか、見なかったのか、わからないほど静かに通り過ぎた。
外ではマルセルが警備についていた。
別の兵がぼやく。
「俺たちは王を守っているのか」
マルセルは答えない。
「それとも、逃げないように見張っているのか」
「口を閉じろ」
「おまえもわからないんだろ」
マルセルは庭の人々を見る。
見物人。
監視者。
怒っている者。
祈る者。
彼には、その区別がつかなかった。
マドレーヌはパンを抱え、宮殿の近くまで歩いてきた。
ジャンに頼まれた配達の帰りだった。
門の前でマルセルが彼女に気づく。
「ここで何をしている」
「王様を見たら、パンが増える理由がわかるかと思って」
「わかったか」
「ううん」
マルセルは苦く笑う。
「俺もだ」
窓の向こうで、白い影が動いた。
マドレーヌが息をのむ。
「今の」
「見なかったことにしろ」
「どうして」
「見れば、近くにいると思う。近くにいると思えば、何かしてくれると思う。何もしてくれなければ、余計に腹が立つ」
マドレーヌはパンを抱きしめた。
「じゃあ、遠い方がよかったの?」
マルセルは門の向こうを見る。
「遠い王は、夢でいられる」
ルイーズは上階からそのやり取りを見ていた。
少女の籠。
兵士の迷い。
閉じられた門。
王家はパリに来た。
だが、王と民衆の間には、まだ見えない距離があった。
夜、ジャンの店でマドレーヌが言う。
「王様は近かった」
テレーズが聞く。
「で、何が変わった」
マドレーヌは小さく答えた。
「近い人に何もしてもらえない方が、遠い人より悲しい」
ジャンは窯の火を見つめた。
「それは、怖い発見だな」
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櫻未來の歴史メモ
今回の出来事
ヴェルサイユ行進の後、王家はパリのテュイルリー宮殿へ移りました。民衆にとって王は遠い存在ではなくなりましたが、それは信頼よりも監視に近い状態でもありました。
史実と創作
マドレーヌやルイーズたちは創作人物です。この話では、王が近くに来ても生活不安が解決しないことを、パン屋と宮殿の距離で描いています。
櫻からの問い
王が近くにいることは、人々を安心させたのでしょうか。それとも、何も変わらない現実をより近くで見せてしまったのでしょうか。
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