第9話:王の馬車は夜を走る
注記: 本作は史実をもとにした歴史フィクションです。
人物の会話、心理描写、一部の出来事の流れには創作を含みます。
史実そのものの解説は、本文最後の「櫻未來の歴史メモ」で補足します。
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今回の登場人物
ジュール:地方の宿駅で働く青年。通り過ぎる馬車の中に、見覚えのある顔を見る。
クレール:王家に仕える侍女。逃亡に同行し、王家の恐怖を近くで見る。
マルセル:パリの兵士。王の逃亡の知らせを聞き、守っていたものの意味を失う。
マドレーヌ:パリの少女。王が逃げたという噂に、裏切られたような感覚を抱く。
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1791年6月20日夜から21日、パリからヴァレンヌへ向かう道。
王家は密かにパリを脱出し、東の国境方面へ向かおうとした。
だが重い馬車と遅れた行程は、夜の闇の中でも人目を引いた。
「その馬車、重すぎる」
ジュールは馬を見て言った。
御者が苛立つ。
「口より手を動かせ。馬を替える」
「夜中に、これだけの荷ですか」
「客の荷だ」
「客は、顔を見せない」
御者の目が細くなる。
「若造。見なくていいものを見るな」
馬車の窓の布が少し動いた。
中にいる男の顔が見えた。
疲れた顔だった。
尊い人というより、眠れない父親のように見えた。
ジュールは手元の紙幣を見た。
御者が支払いに投げた、くしゃりと折れたアッシニア紙幣。
そこに刷られた横顔。
馬車の中の男の横顔。
胸の中で、2つが重なった。
「まさか」
御者が低く言う。
「何か言ったか」
「いいえ」
ジュールは紙幣を握った。
馬車は動き出す。
車輪が夜道をきしませる。
中ではクレールが、幼い子の毛布を直していた。
王妃が小声で聞く。
「外は」
「暗いです」
「暗いだけ?」
クレールは答えに迷った。
「人の目があります」
国王は窓の外を見ていた。
「目は、どこにでもある」
その声は穏やかだったが、ひどく疲れていた。
クレールは思った。
この人は逃げている。
だが、何から。
パリからか。
民衆からか。
それとも、王であることからか。
宿駅の外で、ジュールは走り出していた。
「止めなきゃ」
仲間が叫ぶ。
「何を」
「王だ」
「何を馬鹿な」
ジュールは紙幣を広げた。
「この顔だ」
「紙の顔なんて、皆似てる」
「違う。俺は見た」
彼の声が震える。
「王が、逃げてる」
その言葉は、夜の村に火のように移った。
パリでは、朝になっても扉が重かった。
ジャンの店の前で、誰かが叫んだ。
「王が逃げた!」
テレーズは笑わなかった。
「逃げた?」
マドレーヌが聞く。
「どこへ」
「国境だ。外国軍の方へ」
マルセルは店の前で立ち尽くした。
彼は何度も宮殿の門に立った。
王を守っているのか、見張っているのかわからないまま。
そして今、その王はいない。
マドレーヌが彼を見る。
「兵隊さん、守ってたんじゃないの」
マルセルは答えられない。
テレーズが低く言った。
「近くに来た王は、今度は遠くへ逃げようとした」
ジャンが粉袋を閉じる。
「王が逃げたなら、残された俺たちは何だ」
誰も答えなかった。
夜の道では、馬車が止められた。
ジュールは息を切らして、遠くからそれを見ていた。
中の男は、もうただの疲れた男には見えなかった。
逃げようとして見つかった王だった。
クレールは馬車の中で、子どもの手を握った。
外の声が、少しずつ増えていく。
「パリへ戻す」
「王を戻せ」
「逃げた王を」
クレールは目を閉じた。
パリへ戻る道は、行きよりも長くなる。
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櫻未來の歴史メモ
今回の出来事
1791年6月20日から21日にかけて、ルイ16世一家はパリを脱出しようとしました。しかしヴァレンヌで発見され、パリへ戻されます。これは王への信頼を大きく壊した事件でした。
史実と創作
ジュールは、王に気づいた人物として知られるドルーエを参考にした創作人物です。実際の証言では、王の顔は硬貨ではなくアッシニア紙幣の肖像と見比べられたとされています。
櫻からの問い
王は自分を守るために逃げたのでしょうか。それとも、逃げたことで自分が王であるための信頼を失ったのでしょうか。
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