第7話:ヴェルサイユの雨
注記: 本作は史実をもとにした歴史フィクションです。
人物の会話、心理描写、一部の出来事の流れには創作を含みます。
史実そのものの解説は、本文最後の「櫻未來の歴史メモ」で補足します。
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今回の登場人物
テレーズ:市場の女性。パンを求める行進に加わり、怒りと恐怖の間で人々を見ている。
マドレーヌ:母のためにパンを求める少女。大人たちの怒りの中で、王という存在を初めて近くに感じる。
ルイーズ:ヴェルサイユ宮殿の侍女。王家の恐怖と民衆の怒りの両方を見ている。
マルセル:兵士。群衆と宮殿の間で、誰を守るのか迷い続ける。
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1789年10月5日、パリからヴェルサイユへ向かう道。
パン不足と物価高騰に苦しむ女性たちは、王に直接訴えるためヴェルサイユへ向かい始めた。
雨の中、空の籠と武器と怒りが同じ道を進んでいた。
「歩くよ」
テレーズが言った。
マドレーヌは濡れた籠を抱え直す。
「どこまで」
「王の家まで」
「王様の家に、パンがあるの?」
「あるかどうかを聞きに行くんだ」
「なかったら」
テレーズは雨の向こうを見た。
「その答えも聞く」
女たちは濡れた靴で泥を踏み、叫んだ。
「パンを!」
「ヴェルサイユへ!」
「王に聞かせろ!」
マルセルは列の脇を歩いていた。
上官からは、騒ぎを抑えろと言われている。
だが、列の中には魚売りも、洗濯女も、子を抱えた母もいた。
「武器を下ろせ」
彼が言うと、テレーズが返す。
「下ろしたら、声まで軽く見られる」
「宮殿の兵は脅えます」
「あたしたちは脅えてないと思うのかい」
マドレーヌが小さく聞く。
「王様は、怒る?」
マルセルは答えられなかった。
ヴェルサイユ宮殿では、ルイーズが窓の雨粒を見ていた。
遠くから声が来る。
最初は風の音のようだった。
やがて言葉になった。
「パンを」
「王を」
「パリへ」
同僚の侍女が震える。
「暴徒ですか」
ルイーズは首を振る。
「腹を空かせた人たちです」
「同じことでしょう」
「違います」
だが、声が近づくほど、その違いを口にするのは難しくなった。
宮殿の扉の前で、女たちは叫んだ。
「王に会わせろ!」
「子どもが飢えてる!」
「パンを約束しろ!」
マドレーヌは人の背中に挟まれ、息が苦しくなった。
テレーズが彼女を抱き寄せる。
「離れるんじゃない」
「テレーズ」
「何だい」
「王様は、こんなに遠いのに、どうして私たちのパンを持ってるの」
テレーズは一瞬だけ黙った。
「持っているかどうかじゃない」
「じゃあ、何」
「皆が、持っていると思っている。それが問題なんだ」
宮殿の中で、ルイーズは王妃の部屋へ走った。
廊下には貴族たちが集まり、誰もが小声で話している。
「パリへ行かされるかもしれない」
「国王は譲歩なさる」
「譲歩で済むのか」
ルイーズは扉の前で立ち止まる。
外の声が、壁を通って腹に響いた。
夜が過ぎ、朝が来た。
疲れた人々の顔に、雨と汗が乾いて白く残っている。
やがて、知らせが走った。
「王がパリへ行く」
「本当に?」
「王家がパリへ来る」
歓声が上がる。
だがルイーズには、それが喜びだけには聞こえなかった。
マルセルは馬車の列を見た。
テレーズはマドレーヌの籠を持つ手を見た。
そこには、まだ十分なパンはなかった。
マドレーヌがつぶやく。
「王様が近くに来たら、パンも近くなる?」
テレーズは濡れた髪を払った。
「そう信じたいね」
馬車が動き出した。
ヴェルサイユの門が遠ざかる。
パリへ向かう道に、人々の声が続いた。
「パン屋を」
「パン屋の女房を」
「パン屋の子を」
誰かが笑った。
誰かが泣いた。
ルイーズは馬車の影を見送りながら思った。
王は遠いから王だったのかもしれない。
近くへ来た王は、何になるのだろう。
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櫻未來の歴史メモ
今回の出来事
1789年10月5日から6日にかけて、パリの女性たちを中心とする群衆がヴェルサイユへ行進しました。パン不足への怒りと政治的不安が重なり、王家はパリへ移ることになります。
史実と創作
テレーズ、マドレーヌ、ルイーズ、マルセルは創作人物です。彼らを通して、民衆側の怒り、王家側の恐怖、その間に立つ兵士の迷いを描いています。
櫻からの問い
王をパリへ連れてくることは、民衆の勝利だったのでしょうか。それとも、王を近くで監視しなければ安心できない時代の始まりだったのでしょうか。
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