ーー第2話「外線途絶」
「――軍政官閣下?」
マウスを持っていた男の手が空を掻いた。
「……?」
無意識のうちにもう一度右手を動かすが、そこにあるべきものが何もない。
先ほどまで掌の下にあったはずのマウスも、その下の机さえもない。
代わりに指先に触れたのは、ざらついた布地だった。
ズボン?
そう認識するより先に、鼻を刺す臭いがした。
煙草だ。
パソコンの画面越しには絶対に感じるはずのない、“憎煙家”たる男が嗅ぎ間違えるはずもない煙草の臭気。
男はゆっくりと顔を上げた。
長机。
その上に積み重ねられた紙の束。
インク壺。
壁一面に広げられたフィデリア・ノヴァの市街地図。
部屋の隅では暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜている。
そして――。
軍服姿の男たち。
その全員が、こちらを見ていた。
「…………」
見覚えがある。
ありすぎる。
つい先ほどまでモニターに表示されていた軍政会議の背景。
そして、そこに描写されていた軍人たち。
その軍人たちが、男の真正面に座っていた。
灰色がかった髪を几帳面に撫で付け、眼鏡の奥から心配そうにこちらを見ている右側の軍人の名は確か…….
フィデリア軍兵站司令官
クィントゥス・ファビウス・ルフス少将
ゲーム上で兵站関係の政策画面を開くたびに表示されていた人物だ。ゲームのフレイバー的要素に過ぎないはずが、なぜか鮮明に彼のフルネームを思い出すことができた。
そして、背景のNPCがこちらに話しかけてくる機能などないが、なぜか聞き覚えがある声のように感じてならない。
「軍政官閣下?」
ファビウスがもう一度呼びかけた。
問いかけに答えず、男は自分の両手を見た。
生まれてから自分の一部であり続けたはずが、知らない手だった。
いや。
自分の手だという感覚はある。
だが、記憶にある自分の手ではない。
指は長く、掌には硬い皮膚がある。手の甲には薄く血管が浮き、どう見ても日がな一日パソコンと書類に向かっていた会社員の手ではなかった。
袖口には濃紺の軍服。
胸元を見れば、勲章。
肩には見慣れた階級章。
――大将。
「…………」
もう一度、ゆっくりと室内を見渡す。
心配そうにこちらを見つめてくるファビウス少将。
その隣には、細身で鋭い目をした情報局長、ガイウス・アエミリウス・ロンギヌス少将。
長机の奥には、参謀総長ルキウス・コルネリウス・スカエウォラ中将。
画面の中で何百回、何千回と見てきた顔だが、特段意識したこともなかった。
だが今は彼らは瞬きをしている。
息をする。
煙草から煙が上がる。
紙を押さえる指が動く。
暖炉が熱い。
煙草が臭い....。
そして、全員がこちらを見ている。
「……はあ?!」
歴史上、後にフィデリア建国の父と称される男が異世界で最初に発した言葉としては、いささか威厳を欠くものであった。
室内の空気が止まった。
「……閣下?」
ファビウスの表情が明らかに強張った。
スカエウォラが椅子からわずかに身を乗り出す。
「閣下、どうなさいました」
「いや……」
どうしたもこうしたもない。
さっきまで俺は自宅でゲームをしていた。
そのはずだ。
いや、待て。
自宅だったよな?
WoWを起動していつも通りまず資源の備蓄を確認して。
その前は、仕事から帰ってきて、飯を食って、パソコンをつけたはずだ。
それで――....。
記憶を遡ろうとするほどに、頭痛がして眩暈がする。
「閣下。ご気分でも?」
ファビウスが立ち上がりかけた。
「いや、待て。大丈夫だ」
口から滑り出た言葉に違和感と当たり前が混在し、アンビバレントな感情が湧き上がる。
声色が違う。
自分の声はもっと高いはずだ。
だが、言葉遣いは妙に自然であり、指示をすることになれた口調であって流暢でもある。
意識的に軍人らしい言葉を選ぼうと考えたわけでもない。
なのに口が勝手にそう喋った。
――なんだこれ。
「……一つ聞いていいか」
三人の顔に、困惑とさらに怪訝そうな色が浮かんだ。
「はい」
「君たちは……俺を知っているのか?」
一拍の沈黙。
ファビウスが眼鏡の位置を直した。
ロンギヌスの目が細くなる。
スカエウォラだけが表情をほとんど変えなかった。
「閣下」
スカエウォラが静かに言った。
「20年以上お仕えしている者に対するご質問としては、少々回答に窮しますな」
20年以上……。
男の背筋に、いやな汗が流れた。
「ああ……そうだよな」
「お疲れなのではありませんか」
ファビウスの声には本気の心配が混じっている。
「ここ数日、備蓄計画の見直しでほとんどお休みになっておられませんし……」
待て。
俺は昨日普通に寝た。
何なら9時間は寝た。快眠である。
だが、彼らにとっての「俺」は違うらしい。
これは夢か。
そう考えて、長机の縁を指で強く押した。
硬い。
冷たい。
そして、爪の先が少し痛い。
頬をつねる、という古典的な手段も一瞬頭をよぎったが、さすがに三人の前でそれを実行する勇気はなかった。
「……さっき、何の話をしていた?」
「備蓄計画であります」
ファビウスが答える。
「現行計画では、主要戦略物資についておおむね6ヵ月分を確保しております。ただ――」
そこでファビウスは少し言い淀んだ。
「閣下のご様子を見る限り……やはり6ヵ月では不足でしたでしょうか」
「…………」
違う。違う。
そうじゃない。
お前が心配するところはそこじゃない。
だが、ファビウス当人からすれば、軍政官が突然「はあ?!」と叫んだ理由に思い当たるものがそれしかないのだろう。
「いや……備蓄の話はあとでいい」
「は」
ファビウスが座り直した。
ロンギヌスは、まだこちらを観察している。
あれは絶対に疑っている目だ。
ゲーム画面では単に「情報局長」という名前と能力値しか意識したことがなかったが、実際に目の前にすると妙に怖い。
さて、どうする。
自分がゲームのプレイヤーだったと言うか?
いや、無理だ。
「君たちはNPCです」と言って納得してもらえる未来が一ミリも見えない。
下手をすれば軍政官が錯乱して正気を失った判断されかねない。
そうなった場合、軍政官という地位がどう扱われるのか。
軍法上、精神異常を起こした軍政官は――。
そこまで考えた時だった。
会議室の扉が二度、強く叩かれた。
「入れ」
スカエウォラが答えた。
重厚なオーク材の扉が開く。
若い将校が早足で入室してきた。
男はその顔にもなぜか見覚えがあった。
いや。
正確には、名前も知っていた。
中央司令部作戦当直将校。
マルクス・ユニウス・セウェルス少尉。
彼は部屋へ入るなり姿勢を正した。
「軍政官閣下、参謀総長閣下。通信課より緊急報告です」
スカエウォラの目つきが鋭くなった。
「何だ」
「市外との通信に異常が発生しております」
「異常?」
「はい。9時42分頃より、市外向け電話回線が一斉に不通となりました」
男の思考が止まった。
9時42分。
ついさっきだ。
「電話だけか?」
スカエウォラが尋ねる。
「いいえ、電信も同様です。中央駅からも、隣接管区との鉄道電信に応答がないとの報告が入っています」
「回線障害ではないのか」
「通信課も当初はそう判断しました。しかし――」
セウェルス少尉が一瞬、言葉を選んだ。
「東西南北、すべての外線が同時に途絶しております」
室内の雰囲気が一瞬で変わり、剣呑なものになる。
先ほどまで男の奇行に向けられていた視線が、一斉にセウェルスへ集中する。
ロンギヌスが尋ねた。
「市内回線は」
「正常です。市政府、警察、東部飛行場、北部操車場、各軍施設との通話は確認されています」
「つまり、市の内側だけが生きている」
「現在確認できている限りでは」
ロンギヌスがスカエウォラを見る。
先ほどまでの柔らかい空気は完全に霧散していた。
スカエウォラが立ち上がる。
「事故とは考えにくいな」
「私も同感です」
ロンギヌスが答える。
「敵対勢力による破壊工作の可能性があります」
「外周通信線を同時に?我々の警備もざるではないぞ」
「周到に計画されていたならば不可能ではありません」
ファビウスも立ち上がった。
「鉄道まで同時というのが気になりますな」
男は三人の会話を聞きながら、自分でも驚くほど自然に状況を整理していた。
電話。
電信。
鉄道通信。
市内は正常。
市外は途絶。
知識が頭の中から勝手に出てくる。
通信障害。
破壊工作。
敵襲前の通信遮断。
重要施設警備。
偵察。
頭では「俺はただの会社員だ」と叫んでいるのに、身体のどこか別の場所では、軍人として状況を理解していた。
――なんなんだよ、本当に。
「軍政官閣下」
スカエウォラがこちらを向いた。
さっきまでの「様子のおかしくなった上司を見つめる部下」の顔ではない。
「現時点で敵襲の兆候は確認されておりません。しかし、外線の全面途絶を偶発事故と断定することも危険です」
一拍置いて、彼は問う。
「警戒令を発しますか?」
男は答えようとして――。
初めて、自分が60万人の都市の方針を求められる地位にいることを自覚した。




