ーー第3話「偵察隊を出せ」
「警戒令を発しますか?」
スカエウォラの問いかけに男はすぐには答えられなかった。
警戒令。
言葉の意味は分かる。
いや、分かりすぎるほどになぜか詳細に知っているのだ。
警戒令はフィデリアにおける非常事態対応の第一段階であり、発令されるとフィデリア軍施設の警備強化、要員の緊急呼集、そして、飛行場、発電所、水道施設、中央駅、操車場、弾薬庫その他重要施設への警戒配置がなされる
外出禁止を伴う戒厳令よりも低いレベルの警戒体制であり、市政府や警察も通常の態勢を維持したまま、軍だけが平時より一段高い即応態勢に入る。
そんな知識がまるでこれまで何度も発令したことがあるかのように頭の中へ並んでいる。
確かにゲームの機能として警戒令は存在したがゲームならボタン一つだった。
《警戒態勢へ移行しますか?》と画面に表示されたボタンを選ぶ。
YES。
それだけだ。
だが今、そのボタンの向こう側にいた人間たちが、自分の言葉を待っている。
「……発令しよう」
口に出した瞬間、心臓が一度大きく脈打った。
スカエウォラが短く頷く。
「警戒令発令。全軍、第一種警戒態勢へ移行」
「はっ」
セウェルス少尉が踵を鳴らす。
そこで男は、自分の口が再び勝手に動く感覚を覚えた。
「ただし、市民への発表はまだ待て」
自分で言っておきながら、一瞬遅れて理由が頭の中へ追いついてくる。
現時点では通信障害しか確認されていない。
不用意に非常事態を知らせれば、市民の不安を煽る。
銀行。
食料品店。
鉄道駅。
群衆が押し寄せれば、それだけで混乱が起きる。
「警察には?」
スカエウォラが尋ねる。
「重要施設周辺の警戒を要請。ただし、理由は通信障害への予防措置として伝えろ。市長にも連絡を」
「承知しました」
そう答えながらスカエウォラがほんのわずかに目を細めた。
男にはそれが何を意味するのか分からなかった。
さっきまで支離滅裂な質問をしていた上司が、突然いつもの調子へ戻ったように見えたのかもしれない。
――いや、俺はいつもの調子なんて知らないんだけどな。
セウェルス少尉が退室しようとするのを男が呼び止める。
「待て、通信線が途絶しているを箇所を確認したい」
「通信課を派遣いたしますか」
「いや、まず通信課ではなく偵察隊を出せ」
口から言葉が自然と紡がれていく。
「東西南北、各方向の主要街道と鉄道沿いに地上偵察を出せ。自動車と自動二輪を優先。市境まで行って、道路、線路、通信線を直接確認させる」
「はっ」
「何かしらの異常が確認できた時点で逐次報告を優先させろ」
「了解しました」
男は一瞬考えた。
地上だけでは遅い。
その判断も、ごく自然に湧き上がってきた。
「航空偵察も出そう」
それまで黙っていたスカエウォラが頷く。
「私も進言しようとしておりました。飛行場から連絡偵察機を上げます」
「近距離でいい。まず市の周囲だけだ」
「高度は?」
聞かれた瞬間、数字が頭に弾けた。
「最初は1500。必要なら上げろ。市境から50km以内を確認し、何か発見し次第無線で即時報告させろ」
そう言ってから、男は内心で固まった。
――1500?
なんで俺、今、さらっと高度指定した?
飛行機の操縦経験などあるはずがない。ハワイで学ぶ機会もなかった。
旅客機なら乗ったことはあるが、せいぜい窓際の席でコーヒーを飲みながら上空の景色を満喫した程度の経験。
しかし、高度1500mが近距離偵察に適切であることまで、なぜか感覚として理解できる。
参謀総長からは何疑問も呈されなかったのだから正しい判断なのであろう。
「航空隊へ伝えます」
ファビウスが口を挟んだ。
「軍用車両の燃料については問題ありません。ただ、広範囲な偵察を継続する場合には給油計画を組み直します」
「今はそこまで要らない。市境確認が先だ」
「承知しました」
*
警戒令が発令されると、中央司令部は一変した。
廊下を軍靴が行き交う。
電話交換手が次々と回線をつなぐ。
伝令が書類を抱えて走る。
壁際の電話機は鳴り止まず、当直士官が入れ替わり立ち替わり会議室へ報告を持ち込んでくる。
「北部操車場、警戒配置完了」
「中央発電所、異常なし」
「第一浄水場、異常なし」
「東部飛行場、航空機発進準備中」
軍政会議はいつの間にか、緊急対策本部へ姿を変えていた。次から次にもたらされる情報が市街図と運び込まれた黒板に記載されていく。
男はその真向かいの席に座っていた。
本当なら逃げ出したかった。
できることなら、誰かに、
――あっ、すみません。人違いです。帰っていいですか?
と言って席を譲りたい。
だが、そんな相手はいない。
男はふと首筋に汗が滲んでいることに気付いた。
緊張しているからだと思ったが、それにしては暑い。
部屋の隅では暖炉が盛大に燃えている。
十一月も終わりに近いからか。
暖炉が入っていること自体はおかしくない。
だが、人が増えたせいだろうか。
軍服の襟元が、妙に鬱陶し感じる。
「……暑くないか?」
ぽつりと漏らすと、ファビウスが眼鏡越しにこちらを見る。
「暖炉を弱めさせましょうか」
「いや……まあ、いい」
今はどうでもいい。
男はそう切り捨てた。
「閣下」
スカエウォラが市街図へ歩み寄った。
「地上偵察は四隊を編成します」
地図上の四方へ指を滑らせる。
「北方隊は中央司令部から北部操車場を経由し、北街道を進出。東方隊は飛行場方面。南方隊は工業南縁を抜け南街道。西方隊は住宅地区を通過し西部市境へ」
男も地図を見る。
すると、市街地の構造が驚くほど自然に頭へ入ってきた。
中央行政区。
北部工業地帯。
巨大な操車場。
東の飛行場と軍用地区。
西の住宅地。
南西から北東へ流れる河川。
ゲームでは何度も眺めていた都市の全体図。
だが、画面上のアイコンだった頃とは圧倒的に情報量が違う。
「中央から境界までは?」
「方向にもよりますが、十から十四キロほどです」
十数キロ。
自動車なら遠くない距離である。
ただし市街地を抜ける時間がある。
「三十分程度か」
「道路事情に問題がなければ、その程度でしょう」
スカエウォラの答えに、男は頷いた。
「各隊には写真機を持たせろ」
「すでに手配しております」
「……そうか」
先回りされた。
なんだか少し悔しい。
いや、むしろ当然なのだろう。
二十年以上自分に仕えている男なのだ。
俺より軍事ができなければ困る。
「通信は?」
「市街地近郊であれば既設電話網を利用できます。境界付近からの第一報は、最寄りの電話設備まで伝令を戻すのが確実でしょう」
「無線は使わないのか?」
スカエウォラはわずかに首を振った。
「地上用無線機はございますが、数も限られますし、機動性に難があります。この距離ならば自動二輪の伝令の方が早いかと」
なるほど。
頭の中では理解できる。
この時代、歩兵が手のひらサイズの無線機を持ち歩くわけではない。ゲーム画面では「通信範囲」としか表示されていなかったものにも、現実にはこういう制約があるらしい。
「航空隊は無線を?」
「電信を使用します」
「モールスか」
「はい」
それにもなぜか納得できた。
男は椅子へ深く腰掛け直した。
その時、廊下の向こうから低いエンジン音が聞こえた。
一台。
そして、続いて二台、三台。
窓の外を見ると、司令部正面から軍用自動車と自動二輪が次々と走り出していく。
全員が、自分の命令で動いている。
ゲームなら、マップ上を移動する小さな駒だった。
今は違う。
エンジンの振動が窓硝子を震わせている。
その一台一台に、人間が乗っている。
男は無意識に唾を飲み込んだ。
「偵察隊、出発しました」
スカエウォラが言う。
「……ああ」
それしか返せなかった。
*
午前10時18分。
東部飛行場。
格納庫前で、一機の小型偵察機がエンジンを唸らせていた。
高翼単葉の短距離離着陸能力に優れた連絡偵察機。
整備兵が車輪止めを外した旨の手旗信号を確認した操縦士が片手を上げた。
機体は滑走路へ進み、やがて速度を増して地面を離れた。
中央司令部では、その報告が電話で伝えられた。
「偵察一号機、10時18分離陸」
「航空隊から第一報が来るまで、どのくらいだ?」
「市境だけなら10分もかかりますまい」
スカエウォラが答えた。
10分
たった10分だが、1秒1秒が長く感じられる。
男は市街地図を見つめ続けるが、思考は彷徨い続ける。
頭のどこかでは、まだ思っているのだ。
これは夢なのではないか。
ゲームの演出か。
何かの悪質な冗談か。
そのうち目が覚めて、いつものパソコンの前に戻るのではないか。
煙草は臭い。
暖炉は熱い。
時計は動く。
人は息をする。
電話が鳴る。
そして、自分が出した命令で兵士が走っているのだ。
壁際の通信係が、突然顔を上げた。
「航空隊より入電!」
室内の視線が集中する。
通信係は受信紙を手にしたまま、一瞬だけ言葉を止めた。
「読み上げろ」
スカエウォラが命じる。
「はっ」
通信係が紙へ目を落とす。
「偵察一号機より中央司令部――」
一拍。
「既知の北東街道を確認できず」
沈黙があたりを支配し、誰も声を発することができなかった。
スカエウォラが重苦しい沈黙を破る。
「……続けろ」
「鉄道路線についても、予定位置に認めず」
スカエウォラの眉がわずかに動く。
男は地図へ目を落とした。
街道がない。
鉄道がない。
だが、市街地はある。
そんなことがあり得るのか。
通信係が続ける。
「さらに――市外地形、既存地図との一致を認められず」
会議室が静まり返った。
男は顔を上げた。
「……どういう意味だ」
誰に尋ねたわけでもないが、答えられる者は皆無であった。
窓外では冬空とは思えない柔らかな陽光が、フィデリア・ノヴァの美しい街並みを照らしていた。




