09.もう人間やめちまおうぜ、ボルドス
生きていくためには、もはや「人間」でいることを捨てるしかなかった。
生き残っているのは、俺とボルドスだけ。
「……イグナート。
……これ、食えるか?」
ボルドスが大きな斧を投げ出し、目の前に転がる魔獣の死骸を指差した。
「……食うしかないだろ。
……死にたくないなら、な」
もはや「味」なんて次元の話じゃない。
細胞が書き換えられていく、不快な熱気だけが脳を焼く。
俺の声は、もはや自分のものとは思えないほど掠れ、獣の唸り声のようだった。
俺たちは、泥まみれの魔獣の肉を一心不乱に噛み砕き、飲み込む。
激痛。
嘔吐。
だが、それを何度も繰り返し胃が、身体が、魔素という毒を消化し始める。
それは魔物化の始まりだった。
「……あ、あはは……。
……見てくれよ、イグナート。
……俺の肌、鱗みたいになってるぜ」
ボルドスが、血まみれの腕を見せて笑った。
彼の皮膚は硬質化し、鈍い金属光沢を放ち始めている。
瞳もかつての青空の色を失い、魔物のような縦長の瞳孔へと変質していた。
「……俺も同じだ。
……鏡がなくて幸いだな」
俺たちの視界は暗闇の中でも昼間のように鮮明になり、身体能力は人間を遥かに超え再生能力すら得ていた。
だが、その代わりに「感情」という名の贅肉が、削ぎ落とされていくのが分かった。
メルを思い出し、涙を流す。
そんな人間らしい行為は、浄化されていない肉を食って以降一回も行わなくなっていた。
「……もうこのまま人間やめちまおうぜ、ボルドス。
……魔王を殺すためには、魔物になるのが一番の近道だ」
俺がそう言うと、ボルドスは力強く頷いた。
「ああ。
……魔王をぶっ殺して、俺たちの地獄を終わらせよう。
……その後で、地獄でメルに謝りに行こうぜ」
二人だけの死の行軍。
魔族領の軍勢が襲いくるたび、俺たちは獣のような咆哮を上げ、素手で魔物の喉笛を掻き切った。
かつての「英雄候補」の姿はどこにもない。
泥と返り血にまみれ、魔素を啜る二匹の飢えた獣。
それが、俺たちの完成形だった。
「……シルフィ、陛下。
……俺たちがどうやって生き延びたか、知りたいって言ったな。
……これが、その答えだ」
俺は、マントを脱ぎ捨て、隠していた二の腕を晒した。
そこには人間とは思えないような禍々しい魔紋と鱗状の皮膚が刻まれていた。
「……ひ、ひぃっ……!」
重臣たちが腰を抜かし、陛下も顔を背けた。
シルフィーだけが震える手でその皮膚に触れようとしたが、俺はそれを冷たく拒絶した。
「……触るな。
……あんたの綺麗な手が、毒で焼かれちまうぜ」
俺は欠伸を漏らしながら、シルフィーの表情を盗み見た。
絶望の色が、じわじわと彼女の瞳を染めていく。
それがひどく心地よく、同時に吐き気がした。
「人間をやめた。
……プライドも、愛情も、全部捨てた。
……残ったのは、魔王を殺したいっていう、ただの殺意だけだ」
会場の空気が、さらに凍りついていくのが分かった。
だが、それでいい。
俺は、「英雄イグナート」なんかじゃない。
魔族領が産み落とした、世界で一番惨めな「怪物」なんだからな。
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