28話
一月。
美影町は、凛とした冷たい空気と、新年を祝う晴れやかな喧騒に包まれていた。
神代神社の次期当主である壮一郎にとって、正月は一年で最も多忙な時期だ。
彼は懐妊が判明したばかりの巴を温かな母屋で休ませ、自身は地元の人々と共に、分社での神事や祭事の対応に明け暮れていた。
夕刻近く。ようやく全ての神事を執り終えた壮一郎は、身の引き締まるような狩衣から、落ち着いた色合いの普段着へと着替えた。
疲れはあったが、巴の待つ母屋へ戻ろうと車に乗り込んだ際、彼はふと隣に建つ月城家の屋根を見つめた。
「……そうだ。ちゃんと挨拶しておかないとな」
独り言のように呟き、壮一郎は車を駐車場に停めると、そのまま月城家の玄関へと向かった。
これまでは「幼馴染の息子」として、あるいは「婚約者」として当たり前に出入りしていた家だが、今日ばかりは背筋が伸びる思いだった。
インターホンを鳴らすと、間もなく中から聞き慣れた声が響く。
『はい、どちら様ですかぁ?』
「お久しぶりです。神代です」
巴の母親、弥生の声だ。
『あら! 壮一郎くん! ちょっと待っててね、今行くわ』
しばらくして玄関の扉が開くと、弥生が朗らかな笑みを浮かべて顔を出した。
「まぁ、一旦上がってよ。あら? 巴は一緒じゃないの?」
「……その、今日は巴さんのことでお話がありまして」
壮一郎のいつになく真剣な表情に、弥生はわずかに目を丸くした。
「あら……そうなの? とりあえず、あがっちゃって。今, 譲さんも呼んでくるから」
月城家の居間に通された壮一郎は、冬の夕陽が差し込む畳の上で、居住まいを正して座った。
程なくして、巴の父親である譲が、少し慌てた様子で部屋に入ってきた。
「やぁ、壮一郎くん、久しぶりだね」
「お久しぶりです。譲さん」
壮一郎は深く、丁寧な動作で頭を下げた。その沈黙の重さに、譲もまた神妙な面持ちで座り直す。
「それで……巴の話っていうのは……なんだい?」
「譲さん, 弥生さん……娘さんを、私に頂けませんか?」
壮一郎は顔を上げ、かつてないほど真っ直ぐで力強い眼差しを向けた。
一瞬の静寂。だが、返ってきたのは予想に反した、譲の拍子抜けしたような溜息だった。
「……なんだ、そんなことか。前にも言ったろ、娘をよろしくって。僕はてっきり、何か不手際でもあって婚約破棄でもするんじゃないかとハラハラしたよ」
「そうよぉ、巴のことはもう、壮一郎くんに一任してるじゃない? それで、今回はわざわざ改まって、一体何があったの?」
弥生も首を傾げる。二人の間では、壮一郎が巴を娶ることはもはや「確定した事実」であり、改めて申し込まれること自体が意外だったのだ。
壮一郎は一度、深く息を吐いてから、覚悟を決めて口を開いた。
「巴さんが……身籠りました」
「ふむ……」
「あらあら……」
驚きこそ見せたものの、二人の反応はどこまでも穏やかだった。
「この責任は、必ず取らせていただきます。何卒, 巴さんを私に、改めてお預けください」
「い、いやぁ……そんなに改まられてもね。二人が決めたことなんだし、あの子ももう、一人の女性だ……」
譲が困ったように笑い、弥生がその後を継ぐ。
「そうよ。来年には結婚する予定だったんだし、順序が少し早まっただけじゃない。それより, 巴の身体は大丈夫なの?」
「はい。今は母屋で休ませています。……入籍に関しては、お二人の許可さえ頂ければ、役所が開き次第すぐにでも」
「許可も何も……僕らはそんなのとっくに許可してるよ。巴が幸せなら、それが一番だ」
「譲さんは譲さんで, 厳さんに神代の仕事を分けてもらってる立場だしねぇ。反対する理由なんて一つもないわよ」
「……ありがとうございます」
壮一郎は再び深く頭を下げた。
神代と月城。古くからの地縁と血縁で結ばれた両家にとって、この出来事はスキャンダルではなく、新しい命を迎え入れる「祝事」として受け入れられたのだ。
「あぁ……ちょっと想定より三ヶ月くらい早い懐妊だったけど、我々は壮一郎くんと巴の結婚を心から祝福するよ」
「早く孫の顔を見せてとは言ったけど、本当にこんなに早く見れるなんてねぇ。お祝いを考えなきゃ」
「ありがとうございます!」
その後、壮一郎は譲と弥生を相手に、巴の将来について詳細な話を続けた。
神主としての仕事がある自分に代わり、巴には基本的に子育てに専念してもらうこと。そして――。
「巴は昔から勉強が苦手ですから……子供の教育に関しては、家庭教師を付けるか、駅前の評判のいい塾に通わせるつもりです。彼女の分まで、俺がしっかりと環境を整えますから」
壮一郎が真面目な顔でそう語ると、譲たちは顔を見合わせて笑った。
「ははは! それは賢明な判断だ。あの子に教えさせるのは、ちょっと不安だからね」
「そうねぇ、巴は『壮一郎さえいればいい』って子だから、教育係は壮一郎くんが主導してあげて」
巴の性格を熟知した親たちの言葉に, 壮一郎もようやく表情を和らげ、温かな茶を啜った。
冬の夕暮れ、月城家の居間には、新しい家族の形を祝う穏やかな時間が流れていた。
*
その後。
冷たい夜気に包まれた参道を通り、壮一郎は巴が待つ神代家の母屋へと戻った。
重い引き戸を開けると、玄関の灯りの下で、台所からパタパタと小走りにやってくる音が響いた。
「おかえり~、お仕事お疲れ様!」
巴が、エプロンの裾を揺らしながらとことこと顔を出した。その丸みを帯びた頰は、台所の熱気のせいか、少しだけ赤らんでいる。
「あぁ、ただいま」
「はい、鞄貸して。とりあえず、もうすぐご飯できるから着替えて居間で待っててよ」
「あぁ、ありがとう, 巴」
慣れた手つきで壮一郎の鞄を受け取るその姿は、どこからどう見ても家を守る妻のそれだ。
壮一郎は、つい数十分前までの自分の緊張が、なんだかひどく遠いことのように思えた。
夕食時。
温かな湯気を立てる味噌汁を啜りながら、壮一郎はふと思い出したように口を開いた。
「さっきな, 譲さんたちと話してきたんだ」
「ほぇ……それでお父さんたち、なんか言ってた?」
巴は、自分の茶碗を持ったまま、首を傾げて壮一郎を見つめた。
「反対する理由がないってさ……」
「でしょうね~」
巴はあっけらかんと言い放つと、クツクツと喉の奥で楽しそうに笑った。
「はぁ……。どこまで俺は信頼されてるんだか。妊娠のことも正直に話したけど、それは二人が決めたことなんだし、特に何も言うことがないってさ」
「どこまで~っていうか、お父さんたちから言わせると、予定してた未来が現実になったってだけだからね。特に驚うようなことでもないんでしょうよ」
巴は、壮一郎が持ってきた漬物を口に運びながら、事も無げに続けた。
「お前といい、譲さんたちといい、本当に肝が据わってるな……」
「ま、それだけ壮一郎が信頼されてた、ってことだよ」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ」
悪戯っぽく笑う巴の顔には、絶対的な余裕が満ちていた。
壮一郎は溜息をつきつつも、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
久々に味わった緊張が壮大な肩透かしに終わり、自分がいかに早くからこの月城家の空気に取り込まれていたかを実感する。
「……ま、そうだな。いただきます」
「はい, 召し上がれ」
冬の夜。二人の会話だけが響く居間には、もうすぐ一人増えるであろう家族の予感と、揺るぎない平穏が満ちていた。




