機械仕掛けの神と物語の終わり
一人酒に酔って微睡によしなしごとを思う夜は、どうにも変な方向へと思考が飛んでしまって良くない。「すべては空しい!」なんて声を上げるほどの気概は無いが、自分の中で厭世的な感情が酔いに任せて頭をもたげてくるのはしょっちゅうだ。
大抵の思考は明日になれば忘れるほどの他愛ないものだが、時折自分が世界の真実に気が付いてしまったかの如く哲学的になる夜もある。酒に酔って錯乱した狂人が、厭世家なら仕方もあるまい。ある意味ではセンチメンタルであり、ある意味では躁鬱である。
『機械仕掛けの神』という単語を、時折耳にする。機械仕掛けの神、デウスエクスマキナ、元は演劇用語である。
複雑怪奇に錯綜した物語が、舞台上から降りてくる機械仕掛けの神によって閉じられるその様は、シナリオにおけるタブーである。物語には因果が必要であり、伏線が無ければちゃぶ台は返らないからだ。流れがあるからこそどんでん返しは成立しするし、物語は面白い。
しかしながら現実はそんなモノじゃない。どれだけの絶頂期であろうと、どれだけのどん底であろうと、何かの拍子で引いた風邪一つで人は死ぬ。交通事故でも、心臓発作でも、死因なんて何でもいい。今生きていることがある種奇跡的な確率であるぐらい、死は身の回りにあふれている。
壮大なスペクタクルの幕引きはあっけない風邪であり、日常の終焉は些細な一時停止無視だったりする。まさに機械仕掛けの神そのものではなかろうか。話の流れなんて関係なしに、フラグなんてものは無く、因果なんてものも無く、ただそこで終わる。
ついさっきまでそこにあった生命が、ただの有機物に変わる。じっとして冷たく、朽ちて動植物の糧となるのをただ待つだけの肉塊が、我々の正体だ。そこには魂も物語もない。ただ死があるだけだ。
私たちが遺伝子によって形作られたタンパク質の塊であるという事実は、中学校の教科書にも載っているほど当たり前のことなのに、私たちの本能はそれを理解することを拒む。スーパーに並んだ豚肉を、何気なしに晩飯にするのに、一個の生命が終わる瞬間すら直視できない。私たちは、そこにある豚肉の塊とほんの少しの差異でしかないのに。
一寸の虫にも五分の魂なんて昔の人は言ったが、実際に我々が日常生活を送るうえで土台にしている生命の量は計り知れない。見えないピラミッドの土台と、その上でのうのうと暮らす私たちの間には見えないほどの差異しかないのに。
メメントモリ、汝何時も死を忘るるなかれ。死はそこにあって動かず、逃げど、もがけど等しくやってくる。どれだけの徳を積もうと、どれだけ祈ろうとも、我々はいつか物言わぬ肉塊へと変わる。人生とはそれが遅いか早いかというだけの話である。
現実に因果など無い。どんな善人でも死ぬときは死ぬし、どんな悪人でも寿命を全うしたりする。憎まれっ子は世に憚るし、天網恢恢疎であって駄々洩れだ。
だからこそ、だからこそ我々は縋るように祈るしかないのだろう。怯えた子犬のように、捨てられた子猫のように。祈っても願っても、何か変わるわけでは無いと知りながら。拝んでも僻んでも、逃れられぬ終わりがあると知りながら。祈る神なんて知らないのに、救う仏なんて興味が無いのに。それでもただ縋り祈っていく、我々はどこかしらその弱さを内包しているのだから。
本当の意味で唯物論を唱えられるのは、賢人ぶった愚者と本当に強い人だけだ。誰もかれも、死から逃れることはできない。我々は常に行き過ぎればタナトフォビアとも呼ばれる人々になるのだろう。
私たちに向けて、死は常にあっけない幕引きを我々に用意して待っているのだ。




