第三部 真の小舟 4
『出逢い』って、本当に不思議なものです。
小さなラジオから流れてくる声には、彼女の《全て》の想いが込められていた。
たった一度だけのものであっても、それが《特別》なものなら、人はその出逢いをいつまでも想い続けるんです。
悲しくて辛い時、楽しくて嬉しい時…どんな瞬間にも、心に浮かび上がる『出逢い』があります。
人はいつも出会いと別れを繰り返しているものですが、擦れ違った瞬間や視線を交えた時に、その出会いが《特別》なのか、或いはそうでないのかは、はっきり分かるものだと思います。
私にとっては、『彼』との出逢いこそが、まさにその《特別》なものでした。
…えぇ、私にとって、その出逢いこそが『たった一つ』のものだったんです。
僅かに、沈黙が滑り込む…
その夏の日に再会してから、結局、私は『彼』とは遭わずに受験を迎えてしまいました。
でも、どんなに苦しい時でも、あの夏の日の…たった半日の会話を想い出す度に、心は温もりに満ち溢れてくるんです。
そう、たった半日の出逢い……でも、その『力』は《永遠》です。
勿論、これは恋愛だけに結び付けられるものではありません。男女の間以外にだって、沢山の『出逢い』はあるんですから。
…私と『大塚の欅』のように…私と『宝の小箱』のように……
ね……
壁に掛かった時計の針が、沈黙の中を泳ぐように、そっと音を立てて流れていく。その規則正しい音色が、BGMと入り交じった瞬間、風が声を高め……
…そして、話は始められていた。
……………………………………………………
「あ〜ぁ…結局、眠れなかった……」
カーテンが、しらしらと朝日に照らし出されている。
ベッドで横になりながら、うっすらと明るくなっていく部屋の天井を、真結は円らな瞳でじっと見続けていた。
今日は、受験結果の発表日なのだ。第一志望の私立高校で、通学に一時間半もかかる所だが、受験当日の雰囲気が割りと気に入っている。
それだけに、今日の発表が心配になっていた。
試験そのものは思っていたほど難しくなくて…全力を出し切れたとも思うのだが…
今になると、あの問題はこう書けば良かった…などと後悔する部分も多い。
今更悔やんだところでどうしようも出来ないのだが…それでも、やっぱり、悔やまずにはいられないのだ。
昨日の夜には、美鈴も心配して電話をかけてきてくれた。
懐かしい美鈴の声に励まされている間は、安心出来たのに…朝になってしまうと、その力も半減している。
…結局、何度も寝返りを繰り返すだけで、一睡も出来なかったのだ。
すっかり冷えてしまっている毛布の下から手だけを伸ばすと、電気ストーブのスイッチを入れる。
(誰か、代わりに行ってくれないかなぁ…)
そんな弱気なことを考えている自分に気付いて、思わず真結は苦笑してしまった。
「…ん?」
ふと、誰かの声が聞こえた気がして…真結は瞳を閉じ、息を止めた。
…柔らかな…優しい声が、する……
……大丈夫だよ。全力を出し切ったんだから、自信を持ってもいいんだよ。
俺、何も出来ないけど…でも、こんな俺でもよかったら、一緒に行ってあげるよ。
胸中で、『彼』が黄金色の海を背景にしながら、そっと微笑んでくれている。
(…うん! …ありがとう)
『彼』が何も出来ないなんて!
寒い部屋の中も気にせずベッドから抜け出すと、真結は机に向かい、黙ったまま引き出しを引いた。
菫色の小さな宝箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開ける。
鮮やかな緑に染まる絹に囲まれ、そこには『彼』から借りたままになっているハンカチが、きちんと折り畳んで仕舞い込まれていた。
一年半も前から、アイロンを当てられ、ハンカチは小箱の中に納められている。
この、たった一枚のハンカチこそが、今の真結にとって最も『大切なもの』なのだ。
…まだ、名前すら知らない『彼』との出逢いの証……
「…今日、また逢えるのかな…」
何故か、そんな気がする…
細い指先で静かにハンカチを取り上げると、真結は胸元にそっと押し当て、瞳を閉じていた。
……体の中へと、『何か』が流れ込んでくる……
…その黄金に輝く温かな『言葉』は、確かな想いとなって真結の心に安らぎと勇気を与えてくれた。
「…うん! 大丈夫…
でも……」
ゆっくりと瞳を開く。
真結は、尋ねるような視線をハンカチに送っていた。
…一瞬の沈黙の後、ハンカチを鞄の中へと丁寧に仕舞う。
そう…やっぱり、『彼』にも付いてきて欲しいのだ。
お気に入りの服に着替え、豊かな黒髪に櫛を入れる。
朝食を終えるまでに、普段の倍もの時間をかけた後、漸く真結は靴を履き玄関に手をかけていた。
「行ってきまぁす!」
ハンカチが入っている辺りをしっかりと押さえながら、明るい声と共に外へと飛び出す。
「寒いっ…!」
不意に、北風に包まれてしまう。
その冷たい指先を避けるように、真結は駅へは遠回りになる細い道へと、小走りに駆け込んでいた。
そのまま、朝早い光に美しく輝いている『大塚の欅』の許へと向かう。
見上げる枝先が、黄金色に燃えて霞んでいる。天に浮かぶ雲が金紅色に染まる中、《全て》を等しく覆う陽光を受けて、欅はいつにもまして力強く…そして、優しく真結を迎えてくれていた。
「…行ってくるね。…あなたに笑われないように、しっかりと、自分の目で見てくるからね…」
落ちようとしない枯れ葉と共に、細かく岐れた枝先が柔らかく撓る。
そっと、…包み込むように…そっと……
刹那、真結は欅の裏手に一人の女性を認めた気がした。腕に赤ん坊を抱き、優しくそっと話しかけている…自分によく似た、まだ若い女性の姿……
(……?)
だが、目を瞬かせた後には、森への入り口がいつも通りに暗がりを見せているだけだった。
少しだけ、躊躇ってしまう。
…だが、やがてもう一度『大塚の欅』を見上げると、真結は黙って駅に向かって走り始めていた。
合格者の掲示は夕方まで残されているとは言え、やはり、早めに結果を知っておきたいのだ。
そして、一番に、『大塚の欅』に報告しよう。
『彼』のハンカチを、鞄の中に確かに感じながら、真結は寒空の下を足早に通り過ぎていった。
まだ発表には時間があるというのに、高校へと向かうバスの中は、一目で受験生と分かる学生で一杯だった。
そこから溢れ出す波に押されてバスを降りると、そのまま高校の正門に向かって緩やかな坂を上る。
左右に並ぶ進学塾の講師の群れや、部活動への強引な勧誘に戸惑いながらも、真結は自分でも驚くほど確かな足取りで掲示板の前まで進んでいた。
だが、ここまで来ると、流石にその落ち着きも、立ち尽くす足下からアスファルトの中へと吸い込まれていくようだ。
…少しずつ、怯えや緊張が舞い戻ってくる。
指先に力を込めて、鞄を…『彼』のハンカチを握り締める……
…そのまま、寒さも忘れ、真結はじっと「その瞬間」を待ち続けていた。
周りに集まる学生も、少し騒いでは黙り込み、また少し喋っては口を閉ざすなど、まるで落ち着きが無い。
結果が既に出ているとは言え、この僅かな瞬間に、皆が願いを籠めているのだ。その願いがたとえ重みの無いものであったとしても、それを笑える者などいない。社会が造り上げた道筋に翻弄された結果であっても、それを彼や彼女たちは力一杯やり遂げたのだ。
とうとう、何人かの教師が大きな紙を手にして校舎から出てくる。
沸き起こる不安に眉を顰めると、真結は鞄を、ハンカチを……『彼』を強く、胸に押し当てていた。
……俺は、ここに居るよ。そう…「ここ」に……
『彼』の声が聞こえてくる…
(…うんっ!)
そう、「ここ」に居てくれるのだ。…自分と一緒に……
やがて、掲示が張り出される。
同時に、受験生の集団が動き出していた。
あちこちで騒ぎが起こる中、真結も一つ一つ番号を確かめていく。
何度も見て、もうすっかり覚えてしまっている、ポケットの中の受験番号を思い浮かべながら…
少しずつ、自分の番号があるはずの所に近付いていく。
…こんなにも、手が震えなければいいのに……
……大丈夫だよ。ほら!
その瞬間、確かに、真結は自分の番号を見付けていた。
取り出した受験票の番号を、一文字ずつ辿り…目を閉じて、もう一度見上げても…やはり、そこには自分の番号が記されている……
合格したのだ。
物凄い喜びで、体が破裂しそうになる。
思わず唇を噛むと、涙を零しそうになって…
急いで目を瞬かせると、真結は人の波に逆行して、門のすぐ傍まで逃げ出してしまった。
沢山の人々が、忙しく目の前を行き過ぎる。
少し離れた樹の下で一息吐くと、真結はその幹に寄り掛かり…瞳を閉じてしまった。
次第に気持ちが落ち着いてくる。と同時に、再び喜びが胸中で大きく膨れ上がってくる。
その激しい思いを抑えるように、鞄を胸元に押し付けると、僅かに俯いて真結は知らず微笑みを零していた。
このことを、『彼』にも伝えたい。
名前も知らないけれど…『彼』に、今、すぐ……
「その様子だと、合格したみたいだね。おめでとう!」
思いがけない言葉が、不意に耳に飛び込んでくる。
…柔らかい声……
でも…まさか……
まるで、怯えるように体を震わせると、真結はゆっくりと目を上げていく…
……なんて、温かな笑顔だろう…
「まさか、こんな所で逢うなんて…思いもしなかったよ」
確かな…現実の『彼』の言葉を聞いた瞬間、真結は思わず泣き出してしまっていた。
絶対、夢なんかではない。
本当に、『彼』がすぐ傍に居てくれているのだ。
…なんて言えばいいのだろう。
あまりに突然のことで、真結はただ涙を流すことしか出来なかった……
「あっ、ごめん。びっくりさせてしまったね」
心配して謝ってくれるその声に、必死で気持ちを落ち着かせると、真結は微笑みを浮かべようとした。
だが、瞳を見上げようとすると、途端に涙も溢れそうになる。
…今の真結には、ただ小さく頭を振るだけで、精一杯だった。
「俺、今日、君と逢える気はしてたんだ…だから、『大塚の欅』にも行こうと思って…でも、まさか、こんな所で、こんな形で逢えるなんて思ってなかったから…
その…俺、何て言えばいいのか分からないんだ。
……掲示板の前で君を見付けた時、絶対に『夢』だと思ったんだよ…
でも、やっぱり、《本当》の君だった…」
混乱した口振りが、一生懸命な想いを伝えてくれる。
どうしても震えが止まらない指先で、鞄からハンカチを取り出す。そのハンカチで涙を拭いて…真結は、やっと笑みを浮かべることが出来ていた。
「…ごめんなさい……びっくりしたから……
嬉しかったから……」
「俺の方こそ、ごめん。嬉しくて、何も考えないで声をかけてしまったんだ」
本当に申し訳なく思っている『彼』のそんな様子に、少し笑みを深めてしまう。
漸く落着きを取り戻した心で、真結はそっと尋ねていた。
「あなたは、合格したの…?」
「あぁ、君のおかげでね。
あの夏以来、君にはずっと励ましてもらったんだよ。
ありがとう…」
真剣な言葉に、真結は慌てて頭を振る。
「ううん! …私こそ、何回も助けてもらったもの」
やっと、真っ直ぐに『彼』の瞳を見つめることが出来る。
その時、手元のハンカチに気付いて真結は肩を落としてしまった。
手にしているのは、大切な『彼』のハンカチだ。自分は、またそれを濡らしてしまった…
「ごめんなさい。…折角、返せたかも知れないのに…」
「いいよ。四月からは、毎日、逢えるんだからね…」
そこで一瞬口ごもると、『彼』は少し照れた顔で続けてくれた…
「…もし…もし、迷惑でなかったら……その、ずっと持っていてくれてもいいんだ……えっと、だから…『二人のもの』として…」
その『言葉』に、真結は大きく瞳を見開いていた。
次には、その頬から胸元までが、美しく染め上げられる……
どうして、こんなにどきどきするのだろう。絶対、外にまで聞こえている…
鳴り響く鼓動を、握り締めたハンカチで抑えようとしながら…それでも、真結は微笑みを頬に映し、濡れた瞳で『彼』を見上げていた。
…真っ直ぐに、見つめ、頷く。
「…うん。私、ずっとそうなりたいと思ってたの……」
「じゃぁ……」
ただ、真結は微笑みを深めるだけだった…
「ありがとう!」
喜びに満ち溢れた声が、冬の空に響き渡る。
夏と変わらぬ黄金の光を送りながら…陽射しは、その腕に新しい銀の風を抱き上げていた……
……………………………………………………
『茜色の夕風』さん。これが、私の…『たった一つ』の出逢いの話です。
私は今でも、『彼』のハンカチを持っています。いつも『彼』が使っているものとは別にして、宝の小箱に仕舞い込んであるんです……
《偶然》…奇跡や運命と言えるかどうかは分かりません。
それらは初めから一つも存在していなくて、《全て》が定められているのかも知れません。
でも、これだけは言えると思います。
初めから定められている川だとしても、地図を持たない小舟にとっては、川筋がどの目的地に定められ、伸びているのかなんて判らないんです。小舟にしてみれば、どの道を通っても、どんなことに遭遇しても、地図無しではそのどれもが《偶然》となってしまいます。
だから…『茜色の夕風』さん。
《偶然》をもっと夢見ても構わないんです。そして、《偶然》を大切に、楽しんで下さい。
そうすれば、きっと『たった一つ』の《必然》も、《偶然》の振りをしてあなたの許に飛び込んでくるはずです。
手がかりになれたかどうかは分かりませんが…私と『彼』との話は、これで終わりです。
『大塚の欅』の下ではしゃぐ私達の娘にも、いつかこの話をするのかも知れません。
…いいえ、私達よりも先に、きっと、欅の樹が教えてくれるんでしょうね。
本当に、何週にも渡って聞いてくれて、ありがとうございました。
今夜は、これでお別れしたいと思います。
来週も、あなたに『素敵』なことが訪れますように……
水口 真結でした……
エンディングが、緩やかにラジオから溢れ出す。
美しい音色が小さく消え入ると同時にタイマーは切れ、後には豊かな静寂だけが取り残されていた………
第三部『真の小舟』おわり
黄金の小舟は《無限》の舟
《全て》の《真》を身に示し
虚空にたゆとう『時間』の舟
誰が其の川眺むるぞ
誰が夫の河眺むるぞ………
『宝の小箱』おわり