ひとつの本音
通されたのはこじんまりとした居心地の良い部屋である。泉央は含み笑いを残して、氷雲と透を客間へと案内していった。
簡単に二匹きりにされたことには驚きを隠せないが、落ち着いた瀬穏の堂々たる振る舞いを見るにつけ、この雌が帆河家でどれほどの地位にいるものかということが聞かずとも分かる。うかつには近寄れない威風と、冷徹に感じられるほどの滲み出る怜悧さを併せ持っていながら、その二つとはまるで相反するかのような、穏やかな笑みをよく浮かべる。帆河家の者どもが信頼を置くに足る、真に一匹立ちした鼠である。
正直にいおう、私は瀬穏と対峙して、少なからず気圧されてしまった。話をしたいと申し出ておきながら、いざ面と向かって、なにをいえばいいのか分からなくなったのである。
もはやそんな状況には慣れているかのように、瀬穏は悠然と居住まいを正した。
「泉央従兄さんが失礼を致しました。あのように鼠を食ったような態度は直すべきだと、何度も伝えてはいるのですが、なかなか直してくれません」
困ったものです、と呆れたように笑いながら、優雅な仕草で私にも座るように促した。
「丈雲さんには、私も一度お会いしたいと思っていたところなのです。なにせ婚姻などという一大事、勝手に決められてしまっては丈雲さんも私も納得がいきませんから」
瀬穏はここでそっと口に前足を当てた。
「聞いていたよりも、無邪気な方なのですね」
「むう、先ほどは、その、な」
私がしどろもどろになるほど、彼雌は微笑むのが巧かった。巧い、としかいいようがない。美しいわけでも、優しいわけでもないのだ。それでいて、私の警戒心を一瞬にして解きほぐしてしまう。心を許して、委ねたくなってしまう笑みである。
「ええ、分かっているつもりです。弟さんたちと遊んでいたわけではないのでしょう?」
その上、あの他愛もない野良猫ごっこを見ただけで、本心すら見抜く洞察眼まで持ち合わせているとなれば、小賢しい真似をする余地もない。私はため息をつくと首を落とした。
「どうやらすべて見透かされているようだ。私は」
「この話を、秤山家と帆河家の縁談を止めさせるために来たのですよね?」
瀬穏は言葉を先回りして、私の口をつぐませた。
「ええ、分かっているつもりだと申し上げました。私に分からないのは、破談の申し出を、駆け回らずにはいられないほど逡巡する理由なのです」
逡巡。逡巡しているだろうか。瀬穏の言葉を耳にして、私ははたと考え込んだ。
たしかに、破談の話をどう進めたものか、私は迷っている。その意味では、瀬穏のいったことは正しく、逡巡していることになるのだろう。
だが、それは破談そのものへの逡巡ではないはずである。改めていおう、私はヒイクと添い遂げることになるくらいなら、痛んだ果物でも食って腹を壊すほうがましだと思う。これは、いくら氷雲が穢れなく、透が我々を頼ってくれたとしても、まして瀬穏が思っていたほど鼻につかない鼠当たりの良い雌であったとしても変わらない。なにせ私には心を捧げるべき雌がいる。盤桜由依花嬢に奪われた心を、そう簡単にヒイクへ渡してなるものか。
やはり、瀬穏の洞察はわずかにずれている。彼雌が自信満々に言葉を紡ぐものだから、まるで全てを見透かされたような気になっていたが、これは瀬穏の策であると気づいた。
驚くべき話術である。相手の思考の舵取りを、瀬穏の思惑の中に捕らえるために、言葉尻ひとつで捻じ曲げる。今でさえ、私が由依花嬢に心を預けていなければ、瀬穏との婚姻について、改めて考える余地を植え付けられるところであった。
私はぐるりと首を回すと、しかと正面から瀬穏を見つめた。瀬穏は、私が考えを巡らすのを面白そうに見守っていたようであった。彼雌は、私に言葉を促すように、ぱちとひとつまばたきをした。
「そう……ではないのだ」
考えがまとまらぬまま、私はともかく口を開いた。
「私は、瀬穏殿と会って、考えを改めに来たのではない。考えを確かめに来たのでもない。迷う必要はないはずだった。私には私の矜持があり、あなたにはあなたの責任がある。どちらかが折れなければいけないということではなく、別々のものとしてある」
斎家から逃げる前夜、謎の鼠にわずかな問答を仕掛けられたことが脳裏に浮かぶ。あの時、私は分からないことだらけだとあの鼠にいった。亮雲との仲違い、ヒイクとの折り合い、そして瀬穏となにを話すべきなのか、どれも分からないといったが、そのあとに抱いた気持ちは鮮明に覚えている。
「そうだ。私はあなたとは別の雌に惚れている。あなたとつがうわけにはいかないのです」
ああ、なんと単純明快。それでいて、なんと難しいことか。自分自身の本心に従い、誇りを持って表明するということは。
涙が浮かぶ。さすがの瀬穏も、突然泣く雄を前にして、戸惑いを隠せていなかった。
帆河瀬穏は、歳こそ私よりも若い。だが、ここで口を挟むほど精神的に幼い鼠ではなかった。私がゆっくりと息を吸い、また吐くまで、目を逸らさずに待つ度量があった。わずかに首をかしげるさまには、憐れみと慈しみすら滲んでいる。
当然、その憐憫は私の未熟さにほだされたわけではない、むしろ逆で、いわば失望を隠すためのそれである。ゆえにその瞳には温もりなどなく、ただ静かに私が落ち着くのを待っているのだった。
私はもう一度深呼吸をすると、前足をそっと握りしめた。
「ああ、見苦しく失礼をした。なにぶん、この頃は付き合う鼠の誰もがひと癖ある者ばかりで、こうして素直になったことなど、久しぶりなのです」
いいわけを聞いて、瀬穏はようやくこくりとうなずいた。
「それは私も同じです。立派な鼠になるということは、きっと素朴でいてはいけないということなのでしょう」
瀬穏はあくまで私を対等の鼠として話した。
「丈雲さんが素直に話したというのなら、私もひとつ本音を漏らさなければなりませんね。実は、私も、どうしても家督になりたいわけではないのです」
驚いて顔を上げる。危うく何故かと問いただしそうになったが、先ほどの瀬穏の振るまいにならってぐっとこらえる。すると、瀬穏はいかにも鼠の悪そうな笑みを浮かべた。
「ただ、どうしても家督にさせたくない鼠がいます」
からかうような軽い口調で、瀬穏はいってのけた。
その裏にどの程度の信念があるのか、一瞬考えかけてから、私は推し量るのをやめた。
「好いてもいないチュダイの雄とつがうよりも嫌なこととは、私には想像もつかない」
「ええ、もとより共感されたいとは思いません。好いた鼠がゆえに憎いという、ひどく単純で、誰にも分かり得ない恨みです」
瀬穏がわずかに目を細めた。それだけで、背中の毛が逆立つほどに嫉妬を感じさせる。しかし、次の瞬間にはその目をしっとりと閉じた。前に座るのは、先ほどまでと同じ穏やかな笑みを浮かべる雌であった。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
「もし、あなたがチュダイであったなら、仲良くしたかった」
「うふふ、では、私は、あなたがヒイクであったなら、と申し上げましょう」




