がらんどうの大広間
一瞬、透がついて来た理由はこれか、と思った。だが、その考えはすぐに打ち消さざるを得なかった。どう見ても、予測していた事態とは思えないほどの狼狽ぶりなのである。
「知らなかったのか」
「明は斎家の遠縁の者へ、伝言をしに行ったはずなのです。しばらくかかっているとは思っていましたが、間違っても、ここにいるわけが」
聞き取りにくくなるほど速く回る舌、かぼそく高くなる声、身をかがませて私の体に隠れる態度、どれをとっても、家族と会って安心した鼠とは見えない。それどころか、まるで妹を恐れ怯えているかのようにまで見える。今まで透から聞いていた明という鼠の話は少ないにしろ、透が妹を恐れているようにはまったく思えなかっただけに、これはいったいどういうことなのか見当がつかなかった。
あるとすれば、事実上斎家から放逐された透と、未だに新や栄の息がかかっている明という立場の違いのせいで、妹に不信を抱かれないだろうかという不安だろうか。しかし、これとて説明をすれば二匹の仲が食い違うこともあるまいし、むしろ喜び合える事態のように思える。ともかく、透、明姉妹にとっては、状況が好転している最中だとばかり思っていた。
幸いなことに、明は我々の方へ注意を向けていなかった。隣に立つやはり若い娘鼠に囁きかけられては、うなずいたり首を振ったりしている。
私は泉央のほうを振り向いた。
「驚いた、すっかり気づかなかった。帆河家の鼠は身を隠すのが上手いな。氷雲、気配を殺すとはああいうさまをいうのであって、とてとてと足音を立てることではないのだぞ」
「ははは、俺たちが臆病な気質だからかな、これだけは得意さ。さあ、あまり入り口で立ち往生していても仕方ないか。そこを右側に曲がってくれ」
いつの間にか先導していた二匹の鼠は姿を消していた。右側に曲がるというのも、普通にこの道を歩いただけでは気づかないような仕掛けをした細道である。徹底した危機管理に舌を巻きながら、私は尻尾で透をせっついた。
「先に行け。お前の妹がこちらを見ないうちに」
透は声を出さずにうなずくと、さっと細道に体をねじ込んだ。
私は氷雲を後に続かせながら、こっそり後ろを振り向いた。そして、泉央がちらりと明の方へ目を走らせたのを見た。
どうやら、泉央には、透の挙動がすべて見抜かれていたようだ。
泉央がなにかいってくるかと身構えたが、彼は私をきょとんとした目で見るだけだった。
「どうした。ほら、進んでくれよ」
とぼけるならばこちらから追及することでもない。私はうなずいて、細道の方へ前足を向けた。
道は暗く、曲がりくねっていて、先を行く氷雲の尻尾が隠れてしまうこともあるほどだった。ずいぶんなところへ棲み処をつくったものである。こういった曲がりくねった狭い一本道は、出入りをするのも一苦労、毎日通るとなると気が滅入ることこの上ない。
私なら一度この道を掘りなおすところだと泉央に意見しかけたところで、道幅がわずかに広くなった。かと思うと、突然現れたのはがらんどうの大広間である。先についた透と氷雲は、あっけに取られて頭をもたげている。それもそのはず、斎家の集会所も、秤山家の会議所も、これほど広くはない。床の広さだけではない、我々ねずみという生き物はあまりに広すぎると身が落ち着かないものだが、帆河家の棲み処はヒカリの家よりもはるかに高いところまで空洞が広がっている。総じて、こんな場所は鼠にふさわしくないのである。
もっと驚くべきことは、その広い空間に鼠一匹いないことだ。静けさが耳を打って頭痛を引き起こしそうになるほど、帆河家の棲み処は森閑としていた。まさかと思って鼻を利かせてみる。さすがにヒイクの匂いはして、少しばかりではあるが安心をした。
しかし、考えてみればヒイクの気配がすることで安心するというのもおかしなものだ。チュダイとして、以前ならヒイクの匂いを感じれば警戒していたものだが、ずいぶんと慣れてしまったものである。喜ばしいことか、憂うべきことか、とっさに判断がつかずに、苦笑いするしかなかった。
「どうだい、驚いただろう。たいていの他家の棲み処とは趣が違うはずだ」
泉央が得意げな声を上げる。三匹で一斉に振り向くと、彼は面白おかしそうに口の端を持ちあげた。
「俺たちも、ここがいったいどんな場所だったのかはよく知らない。もちろん、これだけの場所を用意できるのは、人間だろうということは分かるけどね。でも、人間がやってくるわけでもなし、もったいないから俺たちが使ってやっているんだ」
足元の平たい石は、たしかに人工物のようだった。妙な場所を選ぶものである。
「帆河家の鼠は、どうも不思議なところがあるようだな」
「はっはっは、褒め言葉として受け取っておくよ」
少しくつろいでいてくれ、といい残して、泉央は奥の方にある、やはり見分けのつきにくい通路から出ていった。しかし、くつろいでいろといわれてもこの広さである。我々三匹は目を見合わせて、誰からともなく部屋の隅へと寄った。
それでも、氷雲は念願の帆河家へ到着したことに興奮しているようで、ふんふんとあたりを嗅ぎ回りながら落ち着かない。透はといえばやはり明のことが気になるのか、そわそわと耳の裏を掻いたり尻尾を捻じ曲げたりしている。二匹とも他愛のないことを話せそうになかったから、私も仕方なく黙っていることにした。
そうして耳を澄ましていると、ようやく遠くの方からわずかな気配を感じる。音が変に反響するせいでよく分からないが、ここのような広々とした部屋がいくつか、帆河家の鼠の掘った穴で繋がっているようだった。つまり、この部屋はまだ玄関口に過ぎないのである。
実に異質であった。ヒイクなのに体躯の大きな鼠を輩出するとか、チュダイに敵愾心がないとか、特殊な家系であることは決まっていたのだが、これではもはや鼠としての性質を無視しているかのようだ。たとえば、帆河家は翼を失った蝙蝠の末裔なのだ、と説明された方がまだ納得出来そうで、私はいっそうこの家に婿入りするという戯れ言に嫌気が差した。
泉央の口ぶりから察するに、瀬穏はチュダイを婿に取ることを特に拒否してはいないようだし、家督を継ぐことにも乗り気なのだろう。それなのに、その婿候補である私が縁談の破棄を申し出た場合、彼雌の野心は果たしてどのような反応を見せるだろうか。
会ったことすらない雌鼠の心情を推し量ることは難しい。しばらくぐるぐると考えを巡らせてみたが、なにせ根拠が一つもない。これは無駄な考えであるとようやく気づいた時には、思考は疲れ切って、まったく別のことを考え始めていた。盤桜由依花嬢についてである。
由依花嬢についても、心の内を理解することなど出来はしない。出来はしないが、ある種共通の幻想のようなものを抱ける程度には心を通わせられたように思う。そうでなければ、彼雌が「いってらっしゃい」と私を心配そうに送り出すことはなかったはずだ。今も思い出すのは彼雌の声の響きであり、あるいは表情の機微であり、星を落としたような瞳である。今は遠くにいるはずの、由依花嬢の息づかいが、どこかでしているような気さえする。
ようやく私は思い出した。それほど由依花嬢との仲を深められたきっかけは、もはや懐かしき滝緒家の若家督、滝緒秋伍の一言であった。
「他鼠と親しくするたったひとつの方法は、その鼠と話すこと、だったか」
私がひとりごちると、透がぼうっと目を上げた。
「それは、誰のお言葉ですか」
透は、わずかにかすれた声でいった。
まさか透が興味を持つとは思わなかったから、不意を突かれた私はしばらく無言で彼雌を見つめた。先ほどまで落ち着けない様子だったのに、今はどこか遠くを見るような目つきをしながら、呆気にとられたように私を見ている。どうやら、不意を突かれたと感じているのは彼雌も同じのようだった。
「妙なことが気になるのだな。私と年の変わらない友鼠がいっていたことだが」
「はあ」
気の抜けたようなため息は合点のいかない様子だった。釈然としない応答が気に障ったので、私はふんと鼻を鳴らした。
「滝緒秋伍という雄だ。ヒイクでもチュダイ御三家くらいは知っているだろうが、その滝緒家の今の家督を務めている」
「はあ……ああ、いえ、そうでしたか。ならば私の勘違いのようです」
透はぼんやりとしていた頭の中が唐突にすっきりとしたらしく、首をぷるりと振って、それからきょとんとした目で私を見た。まるで私がいたことを今見つけたとでもいいたげな表情に、合点のいかないのは今度はこちらであった。
「なんだ、聞き覚えでもあったのか」
わずかに笑いながら食い下がってみると、透も微笑みながら首をかしげた。
「さあ、よく分からないのです。幼心にそんな言葉を聞いたような気がしていて。しかし、チュダイの家督殿がいっていたなら、私の記憶にあるのもおかしな話です」
透は不思議なこともあるものです、とつぶやいてから、尻尾をぐるりと回した。
そこへひょっこりと顔を出したのは、広間の探検を一通り終えた氷雲である。
「なあに、透さんが斎家に来る前の話?」
「ええ、でも私もあまり覚えていないことだらけで。今も勘違いをしてしまいました」
さっそくじゃれつき出した氷雲をあやす透は、とりあえず明のことを一旦頭の隅に追いやったようだった。思わぬ気分転換が出来たようでなによりだが、しかし、私の直感は、今のやり取りを気にかけておくべきだと告げていた。
瀬穏のようなチュダイとヒイクの混血が生まれる時代である。透の出自が滝緒家と関係していても、おかしくないのかもしれない。
氷雲が私にちらちらと目をやっては逸らすこと数回、ようやく私は自分が渋い顔をしていたことに気づいた。後ろ足で耳の後ろをかいて気を散らす。やはり幼い頃からすり込まれた考え方というのは、そう簡単には変えられないようだった。
しかし、考え方は変えられずとも、新しく認めた価値を加味して、取る行動を変えることならば出来る。だから私は透と氷雲がじゃれ合っているのをおとなしく見ていられるし、帆河泉央ともそれなりに和やかに言葉を交わせたわけだ。ふと、初めて斎栄に出会った時のことを思い出す。いささか幼稚な振る舞いであったかもしれないと、反省の念が湧いた。
反省とはどうにも居心地の悪いものである。それもそうだ、過去の己は間違っていたと認めることなのだから、自尊心が傷つくこと甚だしい。ただ座っているだけではその痛みに耐え切れなくなった。私は立ち上がってぐいと尻を持ち上げ、背筋を伸ばした。
せっかくの広間を無駄に広々とさせておくのはもったいないではないか。私はハッとひと息空気を吐き出すと、後ろ足に力を溜めて、いっぺんに解き放った。そのままどんどん足を回すと、ああ、なんという、久しぶりの無目的の疾駆は、あきれるほどに爽快であった。
壁のところできびすを返して、ぽかんとしている氷雲と透へ足を向ける。横を駆け抜けざまに尻尾を氷雲へと打ち当てると、私はくるりと振り返った。
「そら、氷雲。足の鳴る方へ、だ!」
氷雲は一瞬身を伏せたが、すぐに悪賢そうな笑みを浮かべると、尻尾をしならせて透を打った。
「はい、透さんが野良猫!」
声と同時に、見事な跳びすさりを見せて、私と氷雲は一目散に透から逃げた。透もようやく、我々が子鼠のやるような追いかけっこに興じていることを理解したようで、くすりと笑った後の目がギラリと光った。
迫る尻尾をかいくぐり、時には二匹で結託して猫役をからかい、あるいは別の方向へ逃げる二匹のどちらを追うか悩んで、目が回りそうなほど遊んだ。こうして広間を使ってみれば、すぐに壁が迫ってくる。あれほど広々と見えたがらんどうも狭いものである。
泉央が戻って来たことにも気づかずに、どのくらい遊んでいたものか。氷雲の尻尾をひげ一本の差で避けたあと、ぶつかりそうになった鼠は我慢できないといった風情に笑った。
「なんだ、盛り上がってるね。俺も混ぜてもらおうかな」
その後ろには、一匹の雌鼠が、驚愕のあまり目を見開いたまま立っていた。
泉央よりも淡く、亜麻色がかった毛色。小柄な背は丸っこく、肩から腰にかけて整った毛並みがつやつやと光る。尻尾はしなやかに反り、通った鼻面から伸びるひげは先端まで曇りなく尖っている。目にはいかにも野心が隠れていて、我々の振る舞いに驚いていなければ自信をなみなみとみなぎらせていそうであった。目鼻立ちは泉央にも似ているが、ああ、たしかに、懐かしき父上の傲慢な面影を見ることが出来る。
もはや紹介されなくとも名は判然としていたが、泉央はくすりと笑うと口を開いた。
「さっそく紹介しよう。彼雌が帆河瀬穏だ。瀬穏、こちらが秤山丈雲。噂の彼さ」
「まあ……」
瀬穏は一言つぶやくと、そのまま二の句を継げないようだった。だが、動揺しているのは私とて同じである。まさか、泉央がこれほどあっさりと話を進めるとは思っていなかった。その上、ひたすらに子鼠っぽいところを見せてしまったのだ。
私も瀬穏もなにも言えないでいるのを見て、泉央がにやつきながら言葉を継いだ。
「それで、彼が氷雲くん。ほら、丈雲さんの弟」
同時に後ろから駆け足の音が近づいてきて、私の二歩ほど後ろで立ち止まる気配がした。瀬穏がそちらへ目を移したのをきっかけに、私は何気ないふりをして背筋を伸ばした。
「こんにちは、瀬穏さん。秤山氷雲です」
「あ、ええ、こんにちは。ようこそ帆河家へ」
気まずさを押し隠そうと、瀬穏はぎこちなく微笑んだ。一方、泉央はこの場の雰囲気を密かに楽しんでいるらしく、私に片目をつぶって見せる。本当に食えない雄である。
くだらないやり取りを終わらせるには本題に入ってしまうのが一番だ。私は咳払いをすると、一歩前に進もうとした。しかし、それよりも前に、瀬穏がもう一度視線の先を移したせいで、私の出鼻はまたくじかれた。
「そちらの方は……?」
訝しげな声に振り向くと、透が足音を立てずに寄って来ていた。瀬穏のことをじっと見つめて、まるで今にも飛びかかりそうに身を強ばらせていた。透が瀬穏のことを警戒する理由がさっぱり分からなかったが、このまま話を進めるのは難しそうだと直感する。私は改めて咳払いをして、無理矢理瀬穏の注意を引いた。
「瀬穏殿、我々の用向きはすでにお察しと思う。これから二匹きりで話せないだろうか」
もはや後戻りはしない方が良い。私は直截に申し出た。




