もぬけのからによぎること
翌朝、氷雲は目を覚ますと、のんびりと伸びをした。
「おはよう、兄ちゃん。早いね」
「ああ、おはよう。なに、そろそろ発つことになるから、体をほぐしていたのだよ」
氷雲の耳がぴんと立つ。
「そっか、もうここにいる必要もないんだ」
あっけらかんといい放って、その場で一回り回ってみせる。ずいぶんな気軽さである。あれほどべったりなついていた透やここでの安穏な時間への未練など、微塵も感じさせないで、なによりも気になるのは尻尾のつけ根が少しかゆいことだとでもいうように、ぐるぐると尻尾を振った。
「なにぽかんとしてるの、兄ちゃん」
「今度はお前が父上に似ているように見えたのだ」
「ふーん」
我々が今日発つつもりであることは、透がすでに伝えているだろうから、すぐに栄がやってくるだろう。そう考えて、氷雲と私は少しのあいだ、体操も兼ねつつじゃれあっていた。ところが、しばらくしても音沙汰がない。妙な胸騒ぎを覚えて、私は氷雲を押しのけた。
「棲み処がやけに静かだな」
いつもなら、斎家の者たちの気配を感じるひげが、今日に限って鈍いのである。氷雲はぱちりとまばたきをすると、鼻を高く上げて匂いを嗅いだ。
「そうだね。みんな早起きしたのかな」
二匹で目を見合わせながら、しかし、ヒイクの慣習として、客鼠が棲み処の様子を伺いに出るわけにもいかなかった。気づいてしまえば気になるもので、私と氷雲はひげをひくひくさせながら地団駄を踏むことしかできなくなった。
「ちょっと透さんのところに行ってみようよ」
氷雲がしびれを切らしていう。なにせこの家に逗留しているあいだ、最も活躍したのは氷雲である。弟のやることを信じてみようという気になって、私はこくりとうなずいた。
透の寝床へ向かう氷雲の足取りはしっかりとしていて、不安よりも出発へとはやった心を抑えられないといった様子だ。一方の私はといえば、歩を進めるごとにひげの根元が痺れていく。そしてその暗い予感は、氷雲がひたりと歩を止めた瞬間に、私の心臓をどんと大きく打ち鳴らしたのだった。
やはりというべきか、透の姿は影すらもなかった。
「斎家全員が朝寝坊をしていたわけではないようだな」
平静を装って軽口を飛ばす。氷雲は応じてけらけらと笑いながら、寝床の隅々に目を走らせていた。
私から見れば、透が早く外出してそのままになっているだけの寝床である。なにをそんなに念入りに見る必要があるのかと訝しんでいると、氷雲が突然動きを止めた。
「客間に戻るしかないか」
「いや、待って、兄ちゃん。もしかすると、ちょっと良くないかもしれない」
氷雲は緊迫した声を上げると、前足で口を押さえた。しばらく目を閉じてなにかを考えているふうだったが、なにかを合点したようにうなずくと、今度はぱっと寝床を後にして、客間とは別の方向へ進み出した。
「氷雲、そちらに行くのは無礼だといわれていただろう。どうした」
口ではいさめながら、氷雲の考えが私の思っていることと近いことが分かったから、私も足音を殺しながら後に続いた。相変わらず、氷雲は気配を消すのがへたくそで、とてとてとひどい有様だったが、その表情は真面目である。
「たぶん、斎家の鼠たちは今、一族会議を開いてるんだよ。僕たちの処遇についてかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それは分からないけど、だから、つまり……会議を盗み聞く必要がある」
私は目を見開いた。確かに会議の内容を気にしておく必要があることは明らかだが、氷雲らしからぬ考え方である。むしろ盗み聞きや忍びこみは私の思い至る手段であって、てっきり氷雲なら客間へ戻って透か栄の帰りを待つことを選ぶかと思っていた。
「現状、斎家が我々の敵に回るだろうか」
「まあ……どうだろう。栄さんは僕たちの目的にちゃんと気づいていたみたいだし。新さんが帆河家と繋がりを持ちたいなら、栄さんが僕たちをちゃんと利用することを思いつかないわけはないよね。栄さんは由依花さんに恩を売りたいから僕たちに協力してくれてたけど、まず第一に斎家の跡継ぎだし」
やはり、氷雲は私の不安と同じことを考えていたのだ。栄が我々を裏切る理由は十分にある。昨夜、栄ではなく透が訪ねてきた時から、こうなる予感はわずかにあった。
客を客とも思わない。とかげの尻尾として使おうというのか。




