透ける心は震えて揺れて
斎家の客間では、氷雲が間抜けな顔をして寝ていた。昔から、眠る時はとことんぐっすりと寝る弟である。
しばらく寝顔を見つめていると、入り口の方でまた音がした。まさかまた謎の鼠が現れるかと、冗談めかして思っていたが、もちろんそんなことはなく、いたのは透である。
「こんな時間に用か」
来るならば栄であろうと思っていたから、少し驚きながらも迎え入れると、透はほんの少しだけ笑って、くるりと尻尾を体に巻きつけて座った。
「今日は父がお騒がせしました。お詫びを申し上げようと思いまして」
「なんだ、そんなこと。世話になっている身、家督の新様とお話もしない方が失礼に当たるだろう」
「それでも、いきなりの縁組みの申し出には驚かれたことでしょう」
「それは……平気だったかと問われれば頷きづらいな」
透はまたほんのりと笑うと、氷雲の寝顔に目をやった。
「重ねての失礼を承知で、念のためお伺いしてもよろしいですか」
氷雲を起こさないように、静かに切り出した声は、とても優しげに響く。月の明かりに心をさらしてしまった私にとって、その優しさは柔らかな棘だった。痛むことを知っていてなお触れる前足を止められない。
「いっているように、私は客だ。こちらが無礼を働くことはあっても、あなたを見損なうようなことは決してない」
「ふふ、お優しいのですね」
透はそっと息をついた。
「私をこの家から連れ出していただけますか」
沈黙は濡れるように客間を満たして、つい息を詰めてしまうのは私も透も同じであるようだった。氷雲の寝息が規則正しく聞こえるから、意識せずその数を数え上げているうちに、五十、六十、百と時間が過ぎていく。
私の答えようとしている返事は、透も分かっているようだった。そうでなければ、これほど穏やかな顔で氷雲を見つめはしまい。緊張も期待もしていない、虚ろな穏やかさがそこにあった。その肩を揺り起こして、一瞬だけでも虚ろさを忘れさせてやりたい衝動にかられた。
私は臆病なのだろう。透の虚無感を裏切って、嘘でも斎家の棲み処から逃がしてやることだって、出来なくはないはずなのだ。その一言を口に出来ないのは、私の目的、帆河家へ行って瀬穏と面会するという目的を邪魔されるという、とどのつまり自分勝手な理由である。
「……家に居づらいなら、一匹で出歩けばいい。銀色の月の下、穏やかな風の中、静かな湖畔をそぞろ歩けばいい」
なんの解決にもならないことを知りながら、他に気の利いた答えも思いつかず、私は半ばやけになっていった。
出来るだけ反感を買うような口調を装ったつもりだったが、透の寂寞にも似た心の平穏はやはりその程度の挑発では破れない。彼雌は尻尾をといて立ち上がると、氷雲の寝顔をそっと撫でた。
「氷さんは本当に、名前の通り透きとおった心を持っていて、私はうらやましいのです」
透はまるで氷雲に語りかけるかのようにいった。
「私の名前は透です。透きとおるように純粋で、純潔で、純真であるようにと授けられた名です。氷さんと同じような意味を持つ名前なのに、どうして育った鼠はこうも違ってしまったのでしょう」
振り返った透は、しばらく私の目を見た。気まずさに目をそらしたくなったが、その前に透が力なくうつむいた。
「この身ばかりか妹すら守ってやれなかった。きっと、私が弱いのです。丈さん、どうすれば貴方のように強く居られるのでしょう。氷さんを一滴も曇らせずに守る強さを、どうやって」
「それは違う」
たまらず私は口を挟んだ。
斎家の事情について深入りするつもりはない。透やその妹の明が新と血のつながっていないことや、そのことで姉妹がどういった難しい立場にいるのか、わざわざ考えるつもりなど毛頭ない。だが、透の吐露するところは全て、舵谷丈と舵谷氷の、作り上げた贋物の関係を羨んでのものだ。贋物であると知る私が、どうして彼雌の言葉にうなずけようか。
「私は強くない。私はいつも逃げている。面倒事から逃げ出して、逃げ切って、そのくせ後悔からは逃げられずに、ずるずると引きずりながら走っているだけの鼠だ。そんな鼠を強いといっては、あなたの尊厳すら損ねてしまう。私は強くなどないのだ」
透は静かに首を振った。
「尊厳とは、たいそうなお話です。私は、それほど大した鼠ではありません」
小さくすくんだ肩が震えることもなく、喉を詰めて話しているわけでもない。己が境遇を嘆くわけでなく、さりとて自慢するでもなく、透はあくまで冷静で、ただ言葉だけが饒舌にさまよっていた。
彼雌の意図を汲みかねて、私は押し黙ることしか出来なかった。ただひとつ、栄が勘ぐっていた、透が氷雲へ恋心を抱いているというのが、途方もない勘違いであるのは判明した。透は氷雲を好いているのではなく、嫉妬しているのだ。
私は透の肩越しに氷雲を眺め見た。たしかに純真さにおいて氷雲は、兄のひいき目を差し引いても他の追随を許さないだろう。舵谷兄弟として振る舞う演技すら、ヒイクを騙すためというより、授けられた役を一途に務めているにすぎない。だから私にも氷雲が演技をしているのかどうか分からなくなるし、透も氷を羨むのだ。氷雲にとって、秤山氷雲と舵谷氷は、水面に写る影と同じくらいの差しかない。氷雲は、舵谷氷を演じることもなく、さらにいえば秤山氷雲としても演じることがない。秤山家であるとか盤桜家であるとか、チュダイであるとかヒイクであるとか、そういった枠にとらわれることなく、個としての秤山氷雲を楽しんでいる。勘当をされても、ヒイクに交じっても、氷雲は氷雲であるのだ。
そんな風に考えているのかいないのか、寝顔はことさらにだらしなく、寝息はいびき混じりにひょおい、ひょおい、と奇妙な音を立てて、惰眠をむさぼっている愚弟である。
透の事情も、私の事情も、そんな奇妙な音の前では戯れ言に過ぎず、気づけば透と私は目を合わせて微笑んでいた。
「下らないことをいった」
「私こそ、お耳汚しをいたしました」
透はくしゃみをひとつすると、私にすっと頭を下げた。
「おやすみのところに失礼しました。父のいったことはお気になさらず、是非ご遠慮なさらずにお過ごしください」
「もう充分休ませていただいた。家督殿にもご挨拶が叶ったことだ、あまり長逗留するのも気が引ける」
「斎家は客を客とも思わないと、もっぱらの悪評ですので」
透は本当か嘘か分からないような冗談を残すと、最後まで静かに客間を去った。




