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脱鼠の如く  作者: 朝森雉乃
第三章:丈と氷
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銀月の下に

 その夜、まんじりともできずに氷雲の寝息を数えていると、客間の外に気配がした。こんな時間に、わざわざ客間を訪ねる理由のある鼠は一匹しか思い当たらない。私は氷雲を起こさぬよう足音を殺しながら、入り口の方へと向かった。

「栄か」

 声をひそめていうと、ゆらりと現れた影は、私に向かって前足を差し出した。

 招かれるままについていくと、鼠影は今まで進入することを止められていた区画へ向かっていく。果たして私が進んでもいいだろうかと足を止めると、小さく舌打ちが聞こえた。

 来いとも帰れともいわれてはいないが、ヒイクに馬鹿にされたまま引き下がるのはしゃくに障る。首をぐるりとひとつ回すと、慎重に歩を進めた。前の影はうなずきもせず、またずいずいと急ぐように歩き出した。

 そのうち、空気の匂いがわずかに変わったので、どうやら棲み処の外へ出ようとしているらしいと分かった。客間の近くからも外へ出ることはもちろん可能である。ますますいぶかしく思いながらも、もう私には影についていくしか選択肢はない。それに、不思議といやな予感がしないのである。まるで盤桜由木彦と二匹でこっそりいたずらに出かけた時のような、幼少の頃の高揚感に似たものが胸でまたたき始めていた。

 鼻先が飛び出たのは、月明かりの差す場所だった。地面は人間たちが敷き詰めた固い石ではなく、虫やみみずのうごめく気配を感じる土である。少し離れたところには雑草や低木もちらほら見られた。思わぬ場所に出たことで注意がそれた隙を突かれたのだろう、ここまで私を案内した影はいつの間にか姿を消していた。

「栄? どこへ行った?」

 もう忍ぶこともないとひと鳴きしたが、その声は穏やかな風に運ばれてしまって、返事などかけらも返ってこない。ただ夜空から人間の立てる音がかすかに聞こえるだけだった。

 妙である。少なくとも、私のほかにここまで案内をした鼠が一匹いるはずなのだ。その気配すら感じられないとなると、あの影は栄ではなくお化けの類と考えざるを得なくなってしまうではないか。

「悪ふざけをするな、栄。気配を殺すのが上手いのは分かった」

 もう一度喚いてみると、奥の低木の方でなにかが動いたような気がした。はっきりとは見えなかったものの、ともかく立ち止まっていてはらちが明かないのだ。私は一度ぐうっと尻尾をしならせると、辺りを気にしながら一直線に走った。


 ひげにちりっとしびれが走るような、なにかの予感めいたものを感じる。間違いでなければ、このヒイクの縄張りで、チュダイが現れそうな予感だ。

 しかし鼠影は見当たらない。夜風はひゅうひゅうと静かに渦巻いている。温い空気は気分の落ち着く土まじりの匂いである。月明かりに慣れてきた目に銀色の小石が、木の葉が、低木の枝が映る。どこかで蛙が鳴いた。

「誰もいないのか」

 もはや栄がこの場にいないことはほとんど決まりであろう。私を案内してきた鼠影の正体はひたすらに謎のままだ。ここできびすを返すには、あまりに全てが釈然としない。勘の働くまま、私は月のかかっている方へと歩き出した。

 地表を歩くのはずいぶんと久しぶりである。この関東という土地、人間が多く暮らすうちに、暗い地下を歩くだけでたいていどこにでもたどり着けるほどになっている。我々にとっても暮らしやすくていいのだが、その反面、こうして月の下を歩んでいると先祖返りをした気になって、妙に気分が高揚してしまう。つい駆け出したくなる衝動を抑えて進むと、やがて水辺にたどり着いた。

 静謐な水面である。蛙の声が時折聞こえるものの、その音すらも静けさを際立たせるための細工であるような気がした。すんと空気の匂いを嗅ぐと、温い空気と冷たい水が交じり合って、我が身を尻尾の先から浄化するような快い香りがした。うっとりを目をつぶり、深呼吸をしてから、私はそっと振り返った。

 気配も音もしなかった。だが、たしかに私の目の前に、一匹の鼠が現れていた。毛並みは白銀の光の下でも黒々と濡れ、目は星を宿して聡明に輝いている。その鼠の名を私は知らなかったが、相手はなにもかも知っているかのように、土がわずかに高くなったところから私を見下ろしていた。

「秤山家前家督、秤山封雲の長子、秤山丈雲に相違ないか」

 雄とも雌ともつかぬ声。格がありながら威圧的でない風情。何かを常に見透かしているような雰囲気は、わずかに盤桜由香里を思い出させる。だが、盤桜家の者であれば生粋のチュダイらしい匂いがするはずである。

「いかにも。私の名は秤山丈雲だ」

 チュダイらしくもヒイクらしくもない、まるで初夏の薫風のような匂いをその身にまとう鼠を前に、私はただ頷くことしか許されなかった。


 わずかの間、その鼠と私は互いに心の底を覗こうとするように見つめ合った。しかし、輝く目から読み取れたのは敵意がないことのみで、一方向こうは様々なことを我が心からすくい取ったかのように、しっとりと笑んで見せた。

「我が名はまだ秘しておくべきか。だが、察しの通り敵ではない」

 害意はなさそうだが、信用するかは別問題である。かの鼠が一歩でも近づこうものなら距離を取ろうと身構えたが、なにしろ背後は水だ。左右に目をやると、私は改めて奴を見た。

「逃げられないところまで誘き出しておいて、敵ではないといわれても信用できん」

 来た時は気づかなかったが、私の立つ湖畔は、緩やかに湾曲しながら私を取り囲むような地形であった。これでは水辺に沿って走っても、いつかは相手に追い詰められてしまう。

 まんまと袋の鼠になった形である。しかし、謎の鼠はもう一度しっとりと笑むと、弧を描いて、私に一歩も近づくことなく水辺まで歩いた。

「これでそなたも逃げ出しやすい。どうだ、少しばかり座して語ろうではないか」

 あっけらかんというと、くつろぐように地面へ体を下ろした。足音どころか、座る時でさえ音を立てない。その身のこなしに舌を巻きつつ、私も流されるままに腰を下ろした。

「用件はなんだ」

「まあ急くな。月は冴え、水は穏やかだ。しばし身を委ねても良い夜だろう」

 口ぶりは暢気なもので、ぼうと湖の向こう岸を眺めるように鼻先を横に向けている。私はひとつ息をついて、同じように水が月を映しているのを見やった。

 実は、なにをすることもなくただ座っているというのは難しい。つい頭でぐるぐると余計なことを考えてしまう。それは例えば、封風叔父や亮雲はいったいどうしているのだろうとか、盤桜家は無事であろうかとか、私を取り巻く状況のことに始まり、チュダイとヒイクの種の違いの有無の真偽であったり、あるいは自分でも驚くことに、帆河瀬穏はこの度の騒ぎを受けてどのような心持ちであるだろうと思いを馳せたりした。

 まだ会ったこともない腹違いの妹は、いきなり混血であると告げられたのだ。古くからチュダイとヒイクの垣根をなくそうと唱える帆河家に育ったとはいえ、想像だにしない出来事であろう。まして、ヒイクの方がチュダイよりも家の繋がりを重視するとあれば、知った時にどれほど狼狽えたか、私には予想もつかない。案外ケロリとしたものかも知れぬし、身が裂ければいいとまで思い悩んだかも知れぬ。

 帆河瀬穏がどういう鼠か、今まであまり考えたことがないことに、私は気づいた。


 謎の鼠は飄々と、私のことなどどこ吹く風、ひげを月夜に光らせて、まるで眠りに落ちたかのように規則正しく息を吐いた。美しいとも猛々しいとも見える横顔を、なんの気なしに見つめていると、その視線の気配を察したのか、まぶたをふるりと震わせてみせた。

「案外、風流の分かる鼠だな、そなた」

 他鼠が漏らした言葉であれば、傲りを感じ取ることもできるだろう。自身の横顔を、月夜、涼風、水面という無垢なる自然と等しい価値のあるべしと自ずから宣言するような台詞だ。だが、謎の鼠は悪意を超越する雰囲気をたゆたわせ、鳴き声の一音一音に、言外の意味を一含めも含めずに話していた。

 この者の言葉がどんなものであろうとも、真にその言葉通りに受け止めて正しいと直感する。ゆえに、私も嘘やごまかしを口にすることが出来なくなった。まるで月の光に曝され湖の水に洗われたかのように、純粋な心をさらけ出す必要があると、私の直感は告げていた。

「風流など分からん。分からないことだらけだ」

 口にした言葉はかすれるように小さくちぎれた。

「鼠の世など分からぬことしかないものよ」

 謎の鼠は声を上げて笑った。

「我輩も分かることなどほぼ皆無に等しい。せいぜい、このちっぽけな眼が、なにを美しいと写し、なにを醜いと写すか、その程度を知るに過ぎない。だが、得てしてそれで充分でもあるものよ」

「それでは、私などそのことすら分からない。兄の血に染まった爪を舐める弟から、目を背けることが正しかったのか」

「血は怖ろしい。見ないに越したことはないな」

「この鼻が嗅ぐヒイクの匂いを、果たして醜悪と思っているのかどうか」

「鼻は繊細だからな」

「……まだ見ぬ妹と会って、なにを話せばよいのか」

 ここまで話してハッとした。そうだ、この鼠の登場はあまりに折が良すぎる。私が亮雲とのいざこざに悩み、チュダイとヒイクの関係に悩み、帆河瀬穏について悩んで、一匹になった瞬間の出来事である。これが機を見ていたのではないと、なぜいえるだろうか。

「お前は、帆河家の者なのか。そうなのだろう」

 私が呟くと、鼠はやれやれと首を振った。ふいと月が雲に翳り、表情が見えなくなった。


 鼠はまた、ついとそっぽを向いた。ゆっくりと前足でひげを撫でつけながら、なにを語るでもなくじっとしていたかと思うと、おもむろに腰を上げた。

「先にもいったことだ、まだ名は秘しておくと。帆河家の者と思うなら思っていると良い。我輩は、ともかくそなたに一度会いたかっただけだ」

「私に?」

「うむ。関東鼠の世の中で、当世最も因果が集まっている鼠はそなたであろうよ。まして、チュダイとヒイクの有り様さえ変わるかもしれぬ一大転機。隠居するのも悪くはないが、出張ってみても損はあるまい。そなたの鼠となりも少しは分かった。またいつか会うこともあろう」

 鼠は大仰なことをいって笑った。

「待て!」

「待てといわれれば待とう。だがそなた、他鼠に問うべき言葉など持ち合わせておるまい」

「たしかに信念のない言葉など軽率にいうべきでもなかろう。だが、斎家の棲み処に忍び入ってまで私と会うからには、お前には信念があるはずだ」

「然り。ゆえに我輩はまた会うこともあろうといっている。我輩はそなたを気に入った」

 その声音に、私の喉は詰まった。何かをいおうとしても、声が出ないのである。ゆっくりと夜闇にその輪郭を溶かしていく鼠の背を、私は見送ることしか出来なかった。

 そして、雲から月がまた顔を出した時には、もはや鼠の影はどこにもなくなっていた。

 いったい、身のこなしや風貌からは老いが感じられなかったが、隠居といっていたからには相当の齢であろう。あの鼠の正体はさっぱり分からず、結局私は己の不安をだらだらと口から垂れ流しただけではないか。そんな私のどこを気に入ったかさえ、あの鼠はいい置きもせず去ったのだ。

 明るい月にすら嘲笑われているかのような、奇妙な惨めさが残る。だが、不思議と嫌な感じはしないままである。落ち着くことができずに、そわそわと湖に近づいて水面を触ってみたり、後ろ足の爪で地面を掘り返してみたりしているうちに、少しずつなぜ嫌な気がしないかが分かってきた。

 この惨めさは、常に感じていたものだからだ。秤山家の会議を遁走し、弟に傷を負わされ、ヒイクに檻から出る協力をしてもらったことを、私は常に惨めに思っていたのだ。

 そしてこの惨めさは、心に抱いているべき、共に歩むべき、肯定的な惨めさであるのだ。

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