果たして有耶無耶胸算用
次の日、なにやら外がざわついていると思ったら、客間に栄が飛びこんできた。
「親父が帰ってきた。身づくろいをしておけ。紹介する」
私と氷雲が顔を見合わせている間に、栄はもう姿を消していた。慌ただしい気配はするものの、客間だけはしんと静まり返って、ずいぶんと居心地が悪い。
「やっとだね、兄ちゃん」
氷雲が最近聞いたことのないほど落ち着いた声でいった。私でさえ、氷雲が舵谷氷らしく振る舞うために声まで作っていたことを、この瞬間に知った。彼の黒々と冴えた純潔の目が、まっすぐ前を見つめている。
その姿に、在りし日の母上を思い出した。どこかへ出かけていく父の背中を見送る母も、いつもこうした揺らがぬ目をしていた。いったいどんな気持ちを胸に抱いている目なのかと、幼心に憧れたのをよく覚えている。この目をしてなにかを見ることが出来た、あるいは見たであろうという経験は、ついぞ私にはない。
氷雲の目に見とれながら相づちを打つと、彼はそんな私に気づいてひょいと首を曲げた。
「どうしたの?」
「お前が母上によく似ていると思っていたのだ」
「へえ、そうなんだ」
氷雲がにっこりと笑った。この笑みも、また母譲りのものであると気づいた。母上は、いつも不安がる私や亮雲のことを落ち着かせるために、笑顔を向けてくれた。
「兄は怖気づいてなどいないぞ、氷雲よ」
「ふふっ、分かってるよ兄ちゃん」
「ならばよし」
私と氷雲は目を見合わせると、同時に噴き出した。張りつめた気がすいと抜けると、背中の毛が逆立っているのに気づいた。氷雲にいってなでつけてもらうと、背伸びをして身をほぐす。そうして、爪の間に挟まっていた土を落とすと、もう一度氷雲と目を見合わせた。
「斎新さんって、どんな鼠だろうね」
氷雲がいう間に、慌ただしい気配が客間に近づいてきた。身を正して入り口を向くと、見知らぬ雄ヒイクが透と栄を引き連れて入ってきたところである。
雄ヒイクは我々を見た途端、口の端をひねり上げるように笑った。
「よお、俺の巣に来てる客っていうのはお前らか。透たちの世話は充分だったかい?」
斎新は思ったよりも体躯の小さな雄であった。栄や、もしかすると透よりもわずかに小さいかもしれない。眼光は澱んでいるものの、鋭い目つきをしている。どうも毛並みが奇妙に整っていないと思ったら、全身に細かな傷痕があるせいだった。まるでどこかの荒くれ者のような風体だが、尊大な態度は栄よりも数段格上で、その体躯を補って余りある存在感を放っている。一見するだけで、曲者であることは容易に想像がついた。
新はひょいと跳びはねるような歩き方で、瞬く間に私との距離を詰めた。鼻面をぴったりとつけて、私の目を通して頭の中を覗きこもうとしているかのようにねめつけてくる。そのくせ、新の目からは精気のようなものが感じられない。底知れない威圧感に、私は後じさりをすることすら出来なかった。
しばらくすると、新は不気味な笑みを浮かべて、私の肩をとんとんと前足で叩いた。続いて氷雲にも同じく顔を突きつける。氷雲が私の背に隠れると、新はげらげらと笑った。
「そんなびびんな、がきんちょ。体はでかくてもまだまだ可愛らしいじゃねえか。ええ?」
新は首をかしげて私に目をやった。笑ってはいるものの、明らかに機嫌を損ねたことがすぐに分かった。
今までに出会ったことのない類の鼠である。噂通り礼儀を知らず作法に疎い。滝緒秋伍のように鼠を食ったような態度を取るものの、その根底にあるものが優しさではない。盤桜由香里のように自信をその身にみなぎらせながら、若鼠の些細な無礼さえも見逃せない苛烈な気難しさがある。そして、それすらも笑って凄みを持たせ、威嚇の声を上げずに威嚇をする術を心得ている。
私はひとまず弟の無礼を詫びた。そして、改めて保護に対する感謝の言葉を述べたのち、栄から教わった通りにヒイク流に名乗りを上げた。
新はつまらなそうに聞いていたが、我々の偽名を聞いてぴくりと耳を動かした。
「舵谷丈に氷? お前ら、舵谷家の者か」
どうやら正体はチュダイであることは見破られなかったようである。私は内心で胸を撫で下ろしながら、こくりとうなずいた。
すると、新がいきなり大声を上げて笑った。今度の笑いは、威嚇でもなんでもない、楽しげな笑い方であった。
「お前、そうか、舵谷か。くくっ、こういうのを天啓っていうんだろう?」
新は我々を初めて見るかのようにじろりと見た。目が爛々と輝き出していた。
久しぶりに尻尾がびりりとしびれた。だが、さすがに他家の家督の目の前から、弟だけを残して遁走するわけにもいかない。やっかいなことになったのは明らかだったが、ここは切り抜けるしかないらしい。私は氷雲の前に立つと、したりと新の目を見返した。
新は不敵に笑いながら、目だけは鋭くにらみ続けていた。
「まあ、警戒するな。なに、ちょーっと恩返しをしてくれりゃいい。俺は舵谷と仲良くしたいだけなんだ」
声はやけにねっとりとしていて、なるほど透とは親子であると変に納得した。さっきから黙りこくっている斎家の姉弟を見ると、ずいぶんとひげを垂らしている。新は父親でありながら、娘や息子からも警戒される存在なのである。改めて気を引き締めてのち、私は申し訳なさそうな笑顔を作った。
「我々兄弟は遠縁でございます。見た通りボロ布同然になっても本家を頼れないような鼠ども、話を通せるような立場の者ではございません」
しかし、新は私の言葉を完全に無視した。ぐるりと私のうしろに回ると、亮雲につけられた傷痕をしげしげと見たり、氷雲のおびえるさまを見て楽しそうに鼻を鳴らしたりと、どうもさっきやったような動きをしていて、いったいどんな話が飛び出るのか予想さえ付けられない。この雄の考えを推し量るには、私はあまりに正直すぎるようである。
仕方がないから、息をひそめて立ち尽くしていると、新はまた声を上げて笑った。快活な声を上げて笑っている時だけは、少しだけ親しみを持てそうな顔をするものだから、なおさら不気味だった。
氷雲と肩を寄せ合って固唾を飲んでいると、新は突然向きを変えた。
「透!」
「ひゃい!」
透の声は裏返っていた。それでいて、名前を呼ばれただけのことが喜ばしいかのように、うっとりとした表情をしている。新は透の前足を取ると、ぐいっと我々の目の前へ引きずり出した。つんのめった透が氷雲にしがみついて、もろとも体勢を崩して倒れ込んだ。その様子を、新はにやつきながら眺めていた。
「舵谷にとっても悪くない話じゃねえか?」
新が声を上ずらせながらいった。
「帆河のほかに、御三家のもう一つとも、血で結ばれるっていうのはよ」
しんとした客間の中で、新は私のことを笑わない目で射すくめた。
うめき声をなんとか押し殺す。なぜ、また私にヒイクとの婚姻の話が降りかかるのだろうか。しかも今度は斎透、どういうわけか弟に好意を寄せているらしい雌である。チュダイとしても兄としても、この相手とだけは将来を誓うわけにはいかないという鼠である。
私は目をぱちくりと開け閉めして、意味の分からないふりをした。そして、突拍子もないことをいい出した新のうしろで唖然としていた栄を、ちらりと見やった。栄は私からの目くばせに気づいてようやく口を挟んだ。
「親父、さすがにそれはあり得ないだろう。こいつらは浮浪の鼠だ。透を嫁にやったところで、舵谷家との関係がどうこうなるとは思えない。それに、そんなことをする暇があったら、佐樹草家とのいざこざにけりをつけるべきだ」
栄のいうことは真っ当である。たとえ私が本当に舵谷家の者だとしても、浮浪鼠としてさまよっている時点でふつうは婚姻など考えるはずがないのだ。私は、このまま栄が新のことを押し切ってくれることを期待して、なにもいわないことにした。
だが、新はくつくつと笑うと、栄の鼻先すれすれのところへ尻尾を振りおろした。
「分かってねえなあ、栄よ!」
突如飛んだ怒号に、氷雲と透がびくりと体をすくませた。
「分かってねえよ。俺が今考えてるのは佐樹草のくそじじいに勝つことじゃあねえ。そのつもりだったら、帆河家なんかと仲良くしようとは思わん。その必要がないからだ。ひ弱な帆河が喧嘩に役立つわきゃねえ。
それでも、格だけはある。俺が欲しいのはそこだ。どうやら佐樹草家はしぶとい。俺とお前の二代でこの家が没落するようじゃ話になんねえ。地盤を固める必要がある。そのためには、とにもかくにも格だ。信用だ。厚みだ。そういう意味じゃ帆河家は、歴史も連なる家の数も圧倒的に厚い。その鼠脈をこの家に取り込むことが、佐樹草を潰す前にやるべきだってわけよ。そのとっかかりを探していたところで、はっ! こいつらのご登場だ」
新はちろりと舌なめずりをして、私のことを値踏みするように見た。
「舵谷家に透を嫁がせて援助して盛り立てれば、帆河家も俺たちを無視するわけにはいかなくなるって寸法は、間違っちゃいねえ」
私はつばを飲んだ。突飛だが筋は充分通っている。栄が大したことがないというような雄の思考とは思えなかった。
はあ、とため息をついたのは透であった。
「丈さん、それに氷さん。お騒がせして申し訳ありません。新さまが私をどこかへ嫁がせようとするのはこれで五度目なのです。いつもこの調子ですから、あまりお気になさいませんよう」
透は氷雲を抱き起こしながら、それでも少し嬉しそうな顔をしていた。透という雌の喜ぶ点がいまいち掴めないものの、話題の中心にいる本鼠からの意外な暴露で、またなにか話の雲行きが怪しくなったことは確かであった。
「いーや、今回は天啓ってやつだ。この機を逃すのはどうにも迂闊ってものだぜ、え?」
新は息巻いて尻尾を振りまわす。落ち着いて見てみればその動きは、少し美しい雌を見た時の若鼠の尻尾と似ていた。浮かれて抑えきれない尻尾は乱雑に決まりなく動く。栄がまともに食らわないように少しずつ距離を置いているから、尻尾は幾度も奴の鼻先をかすめた。
透はもう慣れた様子でくすくすと笑っている。
「新さま、この間はお告げ、その前はピンときた、とおっしゃっていましたね。それでも、お役に立てるならばいつでもこの身を差し出す覚悟はございます」
「透、そうやって親父をつけ上がらせるな。いさめるのは俺だぞ」
「よろしいではないですか。新さまがすべてを思うままにする姿は素敵です」
「栄はヤイヤイやかましいなあ。透はこんなにちゃあんと分かってる良い子だってのに」
「透から遠回しに馬鹿にされているようなものだと、いい加減に気づいたらどうだ親父。おい、丈、氷、前もいったが、親父は今日いったことを明日に撤回するような奴だ。あまり気を張りすぎるな。お前たちは俺が責任を持って舵谷の縄張りの方へ帰してやる」
和気藹々とした斎一族のやり取りを見ていると、毒気を抜かれてしまう。新への警戒は果たして杞憂だったのかどうかいまいち判然としないまま、私はただぼんやりと突っ立っていることしかできなかった。
すると、新の興味を我々からそらすためか、栄は動き回っている尻尾を掴んでいった。
「それで、帆河家に行ってきたんだろう?」
栄の言葉を聞いたとたん、驚いたことに新の目つきがまた変わった。今度はその瞳に、盤桜由香里にも引けを取らない冷たい怜悧さを宿している。いったいいくつの表情を隠しているのか、底知れないものがあることだけは確かだった。
「面白いことを聞いてきた。聞いたってか、俺が勝手に察しただけだがな」
「どうもあの家、妙に慌ただしかった。あれは代替わりするかもしれねえ」
ドキリと動揺したのが表に出たのか、新、栄、透の三匹の目が私に集まった。なんと迂闊なことであっただろう。だが、もはや気づかれたことは仕方がない、どう芝居を打とうかと頭の中を目まぐるしく回しているうちに、三匹の顔はますます怪訝さを増していく。
「淵芳様が?」
時間を稼ぐため、私は口をパクパクと蛙のように開け閉めしながら、帆河家現家督の老鼠の名を漏らした。見知らぬヒイクに敬称をつけるのがなんとも奇妙だった。
そのぎこちなさが、言葉を失っているほど驚いているように見えたのか、新と透の目は緩んだ。新はしたり顔でうなずくと、とんとん、と前足で鼻先をつついた。
「勘っていうのは当てになる。匂いっていうのは時に言葉よりも明確に真実を表す。帆河家の空気には、きな臭さと死臭がうっすら漂ってたな」
その後ろから、栄がさっきよりさらに鋭い目で私のことを射抜いていた。我々兄弟が帆河家に行きたがっていることと、帆河家の代替わりの噂を、すでに頭の中で結び付けたのだろう。これを機会にチュダイがなにを企んでいる? 栄の目はそう問いかけてきた。
本来のところ、婿を迎えようと企んでいるのは帆河家のほうであることはすでに栄に伝えてあるが、その渦中へ我々が飛びこむ理由についてはごまかしながら今に至っている。いよいよ栄がその核心をつかもうと思考を巡らせ始めたことを知って、全身から冷や汗が滲む心地だった。ヒイク御三家、帆河家の代替わりに、チュダイ御三家、秤山家が関わっていることまで思い至っている可能性は、十分にあるかもしれない。
そして、そこまで栄が考えているだろうと私が思った瞬間、栄の目が今までになく大きく見開かれた。同時に口の端には奇妙な緩みが走り、前足はさっとひげに当てられた。ああ、なんということか。栄の表情はまさに、全てについて合点がいったと雄弁に語っている。
よもや間違いようはない。
栄は、帆河瀬穏がヒイクとチュダイの混血児であることに気づいたのだ。
普通の鼠ならば、そんな可能性は思いついたところで一笑に付す程度にしか意識しなかっただろう。だが、栄は、ヒイクとチュダイという大枠のくくりにさえ疑問を投げかけている鼠である。この答えが無視できない重みを持つことに気づかぬはずもない。
なにより、生粋のチュダイである私と氷雲が瀬穏に会おうとしていることが、その考えを裏付けてしまっていた。
「親父、舵谷家の者の前で帆河家のそんな話をするのは、少し無神経かもしれない」
栄は何食わぬ顔で新をいさめた。新はふんと鼻を鳴らすと、じろじろと私のことを見つめた。それから、なんの前触れもなく私の肩を叩くと、ばつの悪そうな笑顔を浮かべた。
「たしかに、栄のいうとおりだ。気を悪くしていたらすまねえ」
まったく、新には驚かされてばかりである。さっきまで一家の長らしく傲然としていたのに、この神妙な姿はいったいどうしたことか、目の前で繰り広げられている斎新という役者の劇は、先が読めなければ今まで見たことすらも理解できない、なんとも難解なものだった。私が愛想笑いを浮かべて後ずさると、新は気を悪くしたふうでもなく、栄に視線を送って客間を出ていってしまった。
その栄も、私を一瞥してのち新について行ってしまい、客間には透が残った。嵐のような斎新との会談は、どうやら突然の終幕を迎えたようであった。
彼雌は私と氷雲をちらちらと見比べて、くすりと笑いを漏らした。
「新さまはお二方が気に入ったようです」
どこをどう見ればそのように思えるのか、さっぱり分からなかったが、氷雲はほっと胸を撫で下ろして、さっそく透に甘え始めた。
「緊張したぁ」
「あらあら、氷さん。少しお水でも飲みに参りましょうか?」
「ううん、疲れちゃったから、少しごろごろするよ」
「そうですか」
「ねえ、透姉ちゃんも一緒にごろごろしようよ」
「お誘いありがとうございます。そうしたいところですが、新さまが帰ってきたのなら、きっとそんな暇もないでしょうから」
透はくすくすと笑いながら私の方を見た。
「氷さんはごろごろしたいそうです。丈さんはごろごろしないのですか?」
透が私に話しかけるのは珍しい。どう答えようか考えていると、透はまた笑った。
「本当に、お二方は似ていません。丈さんも少し肩の力を抜いていただければいいのに」
「氷が力を抜き過ぎているだけではないか」
「ええ、そのようですね。あら、本当に寝入ってしまいました」
透は優しげに氷雲の頭を撫でた。氷雲は身じろぎをしながら満足そうに喉を鳴らした。




